ある夜の話。

 薄暗い部屋に儚い灯火が点り、消える。
「……ルーファって、煙草吸ってたんだ」
 ルーファスがパチンとジッポの蓋を閉じ、視線をわずかにずらす。斗樹は寝そべりながら、ルーファスの顔を眺めた。
「たまにですよ」
 というわりには、手慣れた動作で煙草を吹かす。
「危ないですよ」
 煙草の火は小さいが、熱は非常に高い。気をつけなければ火傷のもとだ。斗樹は、ルーファスの忠告など耳を貸さずに腕を伸ばし、煙草を取り上げる。ついで重ねたのは唇。
「…………苦い」
 一呼吸後、離れたあとに残ったのは慣れない煙たさ。本気で苦かった。
「煙を吸ってるんですから当然ですよ。それに、トキにはまだ早いです」
 ルーファスは早々と斗樹の手から煙草を取り戻す。
「この味がわかるようになれば、大人ですよ」
 言外にまだまだお子様だと言っているようなものだ。なんか悔しい。
 放り出されていた煙草の箱をかすめ取る。パッケージデザインはシンプルで、濃い赤で統一されていた。
「……結構いいやつじゃないコレ?」
「そうなんですか? 気にしてませんでしたね」
 箱もやはり取り上げられる。スラックスだけを穿き、ルーファスは使用人室をでた。たぶん外だ、ここに灰皿はないから。
 1人残された斗樹は再びベッドに身を沈める。朝日はまだ遠い。
 目を閉じれば、脳裏に浮かぶのは目にも鮮やかな色。
「……まるで血の色だ」
 斗樹は誰ともなく独りごちた。









 きっと、それは約束。

「カルミヌス様」
 背後から慣れない名で呼ばれる。
 正直、その名は好きじゃない。だけど、この国の――あのヒトに連なるヒトビトは自分をそう呼ぶ。それは自分のナマエじゃない。今の自分のナマエは『朱砂』だ。
 『彼』がつけてくれた、大切なタカラモノ。
 少しばかり不服そうな表情で振り返れば、声の主は少し苦笑いを浮かべた。彼も気づいている。だからこそ彼は、『朱砂』とは呼ばない。それがけじめというものらしい。
「貴女様にお願いがあります」
 表情を切り替えたその目は真剣そのもの。自分は、次の言葉を待つ。
「これからもずっとトキの味方であってください。彼にはまだ『先』があるんです、『生きて』いるんです。
 彼は避けられない困難を乗り越えなくてはいけない。きっとそれは彼を傷つける、傷つけてしまう。でも、私には……それを止めることはできない。……貴方様なら、その理由、もうお気づきですね……」
 一陣の風が2人の間を抜き抜ける。木漏れ日が揺れ、草木がさざめいた。
「だから、そのときは止まらないで。躊躇なく……彼を守ってください」
 同じ。同じなの。思い、想うココロ。だから、自分たちは惹かれた。その手を取った。ならば、自分はその願いを胸に刻もう。
 彼の腕をとり、小指を絡める。戸惑いながらも、彼は応えた。ニッコリと微笑む。
「確か……ユビキリ、というんでしたね。彼の……国では。約束のしるし」
 そう。だからヤクソク。自分は惑わない。踏みとどまらない。
「……貴方様は、素敵な名前をいただけたのですね」
 ええ、ステキでしょ? 本当のナマエではないけれど、当たらずしも遠からず。
 古の名よりも――本当のナマエよりも。

 どうか、迷える魂にも幸あれ。









 きっと、終わる。どんな形であれ。

 日が沈み、窓の外はすっかり夜の闇へと沈んでいた。といっても、闇の時間はそう長くはない。季節は夏、緯度の高いこの国は短い夜を楽しむ。
 ヴァージルは夜の闇を背に、書類に目を通していた。問題のないものには署名と捺印を、疑問点が残るものは差し戻す。
「よろしいのですか、ヴァージル様」
 すぐ側で、書類の振り分けを行なっているハロルドが厳しい声色で問いかける。
「勝手ながら調べました。あの、ルーファスというものの素性」
「面白いものでもでたのかい?」
「えーえー、たくさんの埃と一緒に」
 机の上に差し出されたのは報告書の束。すべて、斗樹の世話役を任されたというルーファスに関する資料だった。
「彼、2年前の生き残りです。全て処分されたという報告でしたが、報告書に改竄された形跡があります」
「大方、ジジイどもの仕業だろうに。まったく、召喚の儀に巻き込まれた数多の精霊にはいい迷惑だ。で? こんな報告書まで作って、ハロルドは何がいいたいのかな?」
「即刻、彼をトキ様の世話役から外すべきです。ジジイどもが絡んでいるというのなら、なおのこと! ヴァージル様はトキ様の身を案じてはいないのですか?」
「そういうわけじゃあないけどね…」
 ハロルドも本当はわかっている。ヴァージルが一人息子を大切にしている気持ちは本物だ。だからこそ、何故、今も野放しにしていられるのか。
「……これは、あの子の問題だよ。仮に君の予想通りだとして、対処しなければいけないのはあの子自身だ。守られるだけではこの世界では生きていけない。ぬるま湯の世界に守られていれば傷つかないが、それはあの子の成長を妨げるだけさ」
 思い出すのは妻、由里音が死んだ時。斗樹は泣かなかった。きっと母の死がまだ理解できてないのだろう、そう思っていた。
 それからだ、様子がおかしくなったのは。目は虚ろに、視線は宙に漂ったまま呆けるようになった。異様な雰囲気に背筋が凍る。どこか遠い、手の届かないどこかへ行ってしまう感覚。妻に続き、息子まで失ってしまうのか?
 病院に駆け込めば、鬱という診断がくだった。それから約半年、斗樹の症状に改善は見られなかった。『彼女』――朱砂が現れるまでは。
「子というのは、いつか親の手を離れていくものさ。遅かれ早かれ。フフ、子離れできないのは僕の方かな」
「ヴァージル様」
「それに……自分で自分の身を守れないのであれば、そこまでだということさ」
「ジルっ!!」
 父親らしからぬヴァージルの発言に、ハロルドは血相を変えて非難めいた声をあげる。ヴァージルはハロルドのネクタイを引き、顔を突き合わせる。
「ハル、いつかは終わるんだ。どんな形であれ。いや、終わらせなくてはいけない。『彼女』を巡るこの骨肉の争いを。そして終止符を打つのは僕達ではない――斗樹だ。『彼女』と契約したあの子自身が断ち切らないといけないんだ」
 だから心を鬼にする。それが『父親』としてやれること。
「……ジル……」
 フッ、とヴァージルは不敵めいた顔で笑う。
 楽天家、ロマンチストなどと人は彼をそう称するがその実、侮れない切れ者であることはあまり知られていない。
 深みのある翠玉色の瞳が、夜の闇を映す。
「……あの件は。『外』の襲撃の首謀者はどうなった?」
「……身柄を確保した時には既に……。おそらく単独によるとはおもいますが」
「物証は押さえといてね。そろそろジジイどもにも、舞台から降りてもらう時期かもしれない」
「大旦那様には、なんと?」
「なんとでも言い繕うさ。今回は兄たちも賛同してるからね。いくらでも根回しは利く」
 こういうところで、この人を恐ろしいと思う。腐っても『オルブライト』、そういうことだ。
「僕達は僕達にしかできないことをやろうか、ハロルド」
「仰せのとおりに、ヴァージル様」

「というわけで……今日は帰れるかなぁ……」
「ヴァージル様の働き次第ですね」