豪華に輝くシャンデリア。着飾った貴婦人や紳士たちが広大なホールを行きかう。
そのホールの隅の壁に寄りかかり、斗樹は少々うんざりした顔をしていた。
今日出席したパーティは裏向きだ。『オルブライト家』主催ではない、招待される側ではあるが。
「こら、疲れた顔をしない。せっかくのかっこいい顔が台無しだよ」
傍らにいたヴァージルは、斗樹の頭を軽く小突く。
「親父は慣れてるからいいけど、こう毎日夜も昼も引っ張り回されると流石に疲れるよ」
その手にもっていたサマー・デライドを一口つける。炭酸が程よく舌に刺激を与えてくれた。
「お疲れ様。もう少しの辛抱さ」
図体はすっかり大きくなったが、それでもヴァージルにとっては可愛い息子に変わりないのだ。柔らかいサンディブロンドをワシャワシャと撫で回す。それをわかっているから、斗樹もされるがままだった。
「おお、これはヴァージル殿、息災ではないかね」
バリトンの効いた声がかけられる。肩の張った、壮年の男性がゆったりと歩み寄ってきた。
「これはお久しゅう。そちらこそ、おかわりのないご様子で」
会話から、どうやら知人であるようだ。いささか、自分は場違いではないかとおもったが、父の顔をたててその場に踏みとどまる。
「ん? そちらの少年は」
「ええ、私の息子です。トキ、こちらへ」
御鉢が自分にも回ってきて、仕方なく父の側に立つ。
「初めまして」
差し出された大人の手に、恐る恐る握手を返す。
「初めまして。父がお世話になっています」
男は目を細め、豊かな黒髭をなでる。
「……もしや噂の少年というのは、彼かね」
噂――『カルミヌス・ノクス』を召喚し、契約を果たしたという若き術師の存在。
「そのことは内密に。快く思わない者たちもおりますので……」
ヴァージルはちらりと視線をずらす。
ホールの一角。数人の集団が遠巻きに斗樹達を見ていた。その視線は、あまり良いものとはいえない。
「まったく、とんだ逆恨みですな」
男もまた事情を察したのか、声色を潜める。
「少年、あまり気にすることはない。彼らは召喚に値する力と品位を持たなかったのだ。あちら側にも選択の権利はあるのだ。『彼女』は君を選んだ、それを悔いてはならぬよ」
「それでは」と男は颯爽と立ち去っていく。
「トキ、全ての人が君を憎いと思っているわけじゃない、それだけはわかってあげて」
わかっている。わかってはいるが、あまりにも様々な視線にさらされ続けた。父曰くの「ジジイ」どもの嫌がらせだというなら、それは十分に効果はあった。
人の視線も、立派な呪詛となる。
「……顔色が悪いね、帰るかい?」
斗樹は頷く。そろそろ限界かもしれない。帰ったらさっさと寝てしまおう。
踵を返し、正面玄関へと足を向ける。すると、何故か人がごった返して騒がしくなっていた。
「何かあったのか?」
ヴァージルは近くの人を掴まえて尋ねる。しかし、答えは要領を得ない。
より詳しい事情を知る人はいないかと、ヴァージルが斗樹のそばを離れた刹那。背後から甲高い悲鳴が上がった。斗樹が思わず振り返ったとき、人垣を飛び越えて迫り来る影が見えた。
「トキっ!!」
父の叫ぶ声がする。対応が遅れた斗樹は、人混みに挟まれ身動きが取れない。為す術がない――そう思った矢先、別な影が足元から飛び出した。
翻る茜の髪、薄紫の帯が羽のようにひらめいた。その華奢な腕からは想像できない打撃を影に与えたのは、朱砂だ。
影は吹っ飛び、人垣へと落下していく。落下地点にいた人々は慌てふためき、その場から急いで避難すれば、影は派手な落下音とともに絨毯へと堕ちた。
斗樹に狙いを定めたかのように襲ってきた影は、イカれた体を無理に起き上がらせようとあがいている。
ギャラリーたちは息をのみ、緊迫した状況を見つめていた。
「トキ、無事か」
人混みを掻き分け、ヴァージルは斗樹の側へと駆け寄る。朱砂はそのまま、斗樹の盾になるかのように立っていた。
「朱砂、戻れ」
朱砂はちらりと視線をよこす。口を尖らせているところを見れば、不服らしい。
「朱砂」
語気を強めれば、やはり口を尖らせたまま、それでも朱砂はするすると影に沈む。
朱砂が影に消えるのを見届けると、斗樹は視線をあげ、今まさに自分を襲ってきた存在を見やる。傍目にわからない、それでもその存在の命の灯火は確かに消え去ろうとしていた。朱砂の攻撃がよほど効いたのだろう。
試しに父を見上げたが、ヴァージルは首を横に振る。もう、助からないの意だ。
誰の使い魔かは斗樹に知る方法などないし、知りたいとも思わない。
それでも、哀れだとは思う。
だからせめてもと。斗樹はシジルカードを一枚、選び抜く。それをヒタリと使い魔の額へと押し当てた。苦しませずに逝かせてやりたい。治癒を持たない、痛みだけを和らげるだけのシジル。
使い魔の身体がブスブスと音をたてて崩れていく。崩壊が始まったことを意味する。
こぼれ落ちていく命の欠片。死とはいつでもあっけないものだ。
脳裏をいつかの記憶がよぎる。痩せた体。日増しに生気を失っていく顔。そして、その温かい手が頭を撫でてくれることは二度となく。永遠に失われた優しい微笑み。
「――ぃっ!?」
ほんの僅か、意識を散らしていたのだろう、左手に鋭い痛みが走り、斗樹は慌てて意識を集中した。左手の手袋には数本の引っかき傷があり、その下の包帯には血が滲んでいる。
どうやら、目の前の使い魔に引っかかれたらしい。使い魔はニタリと気味悪い笑を浮かべていた。この使い魔は、消えるその瞬間まで命令に忠実なようだ。
口が開き、耳障りな声色が呪詛のように紡がれる。
『異国・・汚れ・・・血・・・呪・・・・・・忌子』
ケタケタと。壊れたオルゴールのように、使い魔は断片的な呪詛を吐き続けた。
「トキ、
ヴァージルが目を、耳を塞ぐ。あちら側に、惹きこまれないように。
だが、もう遅い。
使い魔の姿が消えさっても、繰り返される呪詛は頭の中に木霊していた……。
日が沈めば、街の喧騒からかけ離れたこの屋敷はひっそりと静まり返る。
使用人室のベッドの上でルーファスは寝もせず、天井を見ていた。心に引っかかるのは、さきほど帰宅した斗樹の姿。
顔色は悪く、どこかやつれているようにも見えた。会合への引っ張りだこによる疲れだけではああはならない。左手の包帯に血が滲んでいるのを見つけ、交換しようとしたが、逆にその手をはたかれた。
その時の斗樹の顔は、やはり尋常ではなかった。それでもすぐに自分のしたことに気づいたのだろう、「ごめん」と一言だけ謝るなり二階へと駆け出し、部屋に閉じこもってしまった。
世話を任された主が部屋から出てこないのでは仕事はできない。ルーファスはさっさと切り上げ、使用人室へと戻った。
それから1時間はたっただろうか。斗樹の尋常じゃなかった様子が気にかかり、ルーファスも眠れないでいた。
(トキ様……普通ではなかった)
今晩は父ヴァージルもこの屋敷に泊まる予定だった。それなのに帰ってきたのは斗樹1人。ということは、出席したパーティーでヴァージルが残らなければならない『なにか』があったということだ。
(しびれを切らして、フライングをした奴がいるのか……ん?)
ルーファスは口元を歪ませる。日の下で見る温和の姿からは想像できない嘲る笑み。音を殺して嗤おうと思った矢先、階上で動きがあった。
静かに開き、閉ざされる扉の音。廊下を歩く裸足の音。引きずる布音。
(トキ様?)
上体を起こし、音の行方を追う。足音はしばらく歩き、途絶えた。
(あの距離だと……バルコニー?)
ルーファスはベッドから抜け出し、使用人室のドアを開ける。廊下は静寂の闇と音に支配されていた。
階上に通じる階段は1箇所だけ。周囲に気を配りながら階段にさしかかった時、らしくもなく声を上げそうになった。
天窓から差し込む青白い月光。その光を背に、階段の踊場に立つ人影――朱砂だ。
警戒しているのか、朱砂の表情に色がない。いつもの陽気な色は抜け落ち、まるで人形のようにのっぺりとしている。此処から先は誰も通させない、そんな意図さえ感じ取れた。
「カルミヌス・ノクス様」
あえてルーファスは、古の名で呼ぶ。自分に『朱砂』と呼べる資格はないのだ。
「………………」
朱砂は無言を貫く。斗樹と朱砂は、感覚をリンクしているという話を聞いたことがある。ならば『彼女』が無言を貫くのは、『彼』の意志でもあるのだろうか。
「通らせてください、カルミヌス様」
だからこそ、踏み込む。一歩先へ。触れられない、触れられたくないだろう領域へ。
しばらく無言を貫いていた朱砂は、そっと姿をかき消した。
青白い月が中天にかかる。大きく取られた窓からは、月光が差し込む。
月光に彩られたバルコニーの片隅。壁に備え付けられたベンチに彼はいた。顔は見えない。タオルケットを被り、うずくまっている。
声をかけられないまま、ルーファスは立ち尽くす。足がまるで石にでもなったかのように動かない。動かせない。
微かに聞こえてくる啜り泣く音が、ルーファスを踏みとどまらせる。
アア、ナゼ、ジブンハココニイル?
自分ではない自分の声が聞こえるウルサイ理由があるからここにいるリユウそうだ、理由がある目的があるダカラココニイル
思考に交じるノイズが煩わしい。じわじわと迫ってくる気配を振り切ろうと、ルーファスが頭を振った時だ。
ギシリ、と。床が音を立てる。その音に弾かれるように斗樹が顔を上げた。
宙を、雫が、舞う。頬を濡らすソレは、月光に当てられて、まるで宝石のように煌めいていた。
ルーファスがすぐ近くに立っていたことに斗樹は驚き、頬を零れ落ちるソレをぞんざいに拭う。擦れば擦るほど、頬に不自然な赤みが増した。
――見られたくなかった。知られたくなかった。こんな弱い姿など。
息が急く。頭の中がグルグルと回る。呪詛の言葉が心に深く突き刺さる。
「……トキ様」
ルーファスが一歩足を踏み出せば、斗樹は肩を震わせて青ざめる。
拒絶。恐怖。孤独。斗樹の心を縛る負の感情。取り繕わない本来の姿――むき出しになった心そのもの。
ルーファスは、その姿がどうにも愛おして堪らなかった。決して見せようとはしなかった心を、感情に露わにした姿。愛おしてくしょうがなかった。
こんな感情、自分には不要だとすらルーファスは思っていた。
「ごめん……起こして……もう俺も、寝るから…………おやすみ……」
必死に取り繕い、全ての痛みを自分の中に抑えこもうとする姿が痛々しい。傍らを通りぬけ、部屋へ戻ろうとした斗樹の腕をルーファスは掴む。
「……ルーファス、さん?」
震えながらも、どこか訝しむ声色。
「……トキ様、無礼をお許し下さい」
「え……な、に――」
不自然に言葉が途切れた。
斗樹は目を見開いた。映るものすべてが信じられないと瞳が語る。
時間にすればほんの僅か。数秒にも満たないだろう時間。ゆっくりと離される、自分のものではない熱。
眼前には、大きく見えるルーファスの顔。
――いま、じぶんは、なにをされた?
「……逃げないんですね。普通、男にキスされたら嫌がりませんか?」
キス? あぁ、これがキスというものなのか。悪かったな経験なくて。て言うかこれ俺のファーストキス……
「初めて、だったんですか……? そこはお父上様とは違うんですね。環境の違い、というのもあるんでしょうけど」
「……っていうか、なんでキスなんかしたんだよ……」
「したかった、では納得しませんよね。でも、ただ純粋にしてみたかったんです」
「あんた…………ノンケかとおもってた」
「一応、トキ様より経験は豊富だと自負しますね。男も女も相手にしたことありますから。もちろん、女役も男役も経験済みですよ」
「……節操なし」
「なんとでも。そういうトキ様こそ……ホントはストレートじゃないでしょ」
「――っ」
頬を赤らめ、斗樹はやや視線の高いルーファスを睨みつける。
「……あたり、ですね」
斗樹の父ヴァージルは「バイ」だ。女は亡き妻のみと誓ったが、男を相手にする事は止めてはない。事実、ヴァージルの専属秘書ハロルド・カールトンとは愛人関係にある。
そしてその事実は斗樹も知っていた。
二人の関係を呆れることはあっても、嫌悪することはなかった。だから、たぶん、自分もそうなのだろうと斗樹は思春期の始めには自覚していた。
だが世間はそうはいかない。同性を好きになるという行為は異質だという認識が根強い。うまく社会を生きていくには隠さなければならない。
だから斗樹は演じた。偽りの姿を被り、真の姿を隠す。そうやって、誰も気づかせないできたはずなのに。
「……なんで分かったんだよ」
「雰囲気、ですね。だって結局嫌がってないでしょ。そうでない男だったら嫌悪バリバリで唇拭うわ、最悪殴られてますから。
ということで、元気出ましたか?」
今度は、きょとりと斗樹が首を傾げる。話の脈絡が、よくわからない。
「こんな夜中に泣いてるんですよ……。何かあったと察するのが、自然です」
ああ、そういうことか。斗樹は妙に納得、しかけたが、ヒクリと頬を歪ませる。
「で、それがなんでキスになるんだよ……俺のファーストキス……」
ちょっと、いやかなり落ち込む。
「だからいったでしょ、したかったって。自分でも驚きですよ、したい、なんて本気で思ったのは」
「へ?」
ホンキ? 本気っていった?
「ほんと、トキ様は不思議な方ですね。目が離せなくなる。愛おしいと思ったのは、あなたが初めてです。だからもうちょっとください」
なにがもうちょっと、という答えはすぐにわかった。
再び塞がれる口。重なる唇。違うのは、一方的ではないこと。
互いに貪り合うように重ねあい、絡め合う。重なる熱が蕩けそうだった。
「……ん、……はぁ」
唇を離し、斗樹は大きく息を吸い込んだ。頬は高揚し、グリーンの虹彩が潤む。
「…………ごめん」
「なぜ、トキ様が謝るんですか?」
斗樹は自虐めいた笑みを浮かべる。
「たぶん、俺はあんたを利用した。あんたなら傷つかない、そんな勝手な理由」
「よくわかりません」
「俺……一時期、頭悪くなってたときがあったんだ。鬱っていうか、そんな感じ。母さんが死んで、それを受け入れられなくて。半年近く、ただ漠然と生きてた」
朱砂と出会うまでは。
「正直、立ち直っちゃあいない。今も引きずってる。朱砂は……俺の痛みの半分を引き受けてくれた。だからこうやって人並みに生きていける」
誰にも語ったことのなかった自分の弱さ。どうして、ルーファスになら語ってもいいと思ったのだろう。斗樹はふと思った。
彼はただの使用人で。時が来れば、自分は日本に帰る身で。そうすれば、もう会う機会などないに等しいはずなのに。
まだ彼のことは、何も知らないのに。
知らないから? 知らないから、知りたいから?
「ルーファス、さん」
ああ、これなのか。これが――
「――好きです」
人を「好き」になるという激情。