聞き慣れた言語とは異なる言葉が行き交う空港から一歩足を踏み出せば、眼前に広がるのは異国の情景。いくら季節が夏とはいえ、東京とはまた違う。全体的に薄ら寒い。
 ボストンバックを抱え直し、さてどうしようと斗樹は迷う。
 正直、英国に来たことがあるのは母がまだ生きていた頃まで。それ以後は訪英することもなくなっていた。パスポートは万一のことも考えて、更新はしていたが。
 だから正直、『オルブライト家』の所在がよくわかっていないのだ。記憶がうろ覚えすぎる。
 携帯で父に連絡をと思ったが、そういえば国際仕様にしていないことを思い出した。仕方ない、公衆電話を探そう、とした矢先。
 黒塗りの車が斗樹の目の前で止まった。運転席側のウィンドウが下がり、現れた人は覚えのある顔だった。
「お待ちしておりました、トキ様」
 ハロルド・カールトン。父ヴァージルの公私にわたる専属秘書だ。
「お久しぶりです、カールトンさん」
 傍目にもわかる歳相応の皺。しかし、それがより深みを引き立たせているのか、かっこいい壮年の姿がそこにあった。
「トキ様も大きくなりましたね。最後にお会いしたのは2年前でしたか」
 ハロルドは颯爽と車を降り、後部のトランクを開ける。斗樹の荷物は大きめのボストンバック1つと、肩掛けカバンだけ。
「お荷物はこれだけで?」
「はい。あとは現地で手に入りそうなので、それならいっかなーと思って」
 父との会話に英語が交じる機会が多いことから、斗樹の基礎的な英会話に問題はなかった。
「わかりました。どうぞ」
 ハロルドが、恭しく上体をかがめて後部ドアを開く。
 東京にいる時はあまり感じたことはなかったが、改めて自分もまた『オルブライト家』の人間なのだと、斗樹は苦笑した。



 斗樹を乗せた車は街中を走る。
「本当でしたらヴァージル様もご一緒の予定でしたが、あいにく外せない会議が入りまして。かなり来たがってましたよ」
「親父は大げさなんだから」
「楽しみにしてるんですよ。クリスマス休暇で来日するとはいえ、一緒に暮らせるのはほんの数日。1年の殆どは離れてるでしょう。だからトキ様と一緒に過ごせるのが内心嬉しいのですよ」
「……ほんと、カールトンさんって親父のこと一番わかってるよね」
「ハハハ。長年、共にいるとあの方の考えなどすぐに分かりますよ。もちろん、全てがとは言いませんが」
 車窓から見える景色は次第にその様相を変えていく。立ち並んでいた高い建物は数を減らし、代わりに広大な田園が増え始める。

 オルブライト家。
 英国に本部を置く同族経営グループ。あらゆる業界に参入し、各国にも支店を持つ巨大企業。
 もちろん、それは表向きの顔だ。
 もう一つの顔――それは古くから続く魔術師としての顔。
 それを物語るかのように、『オルブライト家』は純血主義者が多い。異国の血を混ぜることをよしとせず、婚姻においても『オルブライト家』縁のものを選ぶという徹底ぶり。一節には、近親婚を繰り返した時代もあったという。
 現代においては、純血主義にたいして穏健派や中立派なども現れるようになったが、それでも純血主義を強固に主張する過激派も根強い。
 それ故に斗樹の存在は、微妙な立ち位置にいる。
 オルブライト家直系に列するヴァージルの子息とはいえ、異国の血を半分引き継ぐ身。過激派からすれば、存在してはならない存在。もし、『ただのヴァージルの子』であったなら疎まれることは仕方ないとしても、ここまで関係悪化はしていなかったかもしれない。
 関係悪化の要因は斗樹の容姿にあった。
 偉大なるオルブライト創設者。『サンディブロンド』『エメラルド・アイ』であったという伝説。その伝説は『オルブライト家』にとって神聖なものとされた。
 運命のいたずらか、斗樹の容姿は伝説そのもの。更に拍車をかけたのが、斗樹が契約した使鬼――朱砂の存在だった。
 当時幼かった斗樹に知るよしもない。契約を交わした使鬼、『朱砂』という名を与えた彼女が、『オルブライト家』における『カルミヌス・ノクス』と同一人物であることなど。
 この出来事から、穏健派や中立派の間には創設者の再来ではないのかという噂が絶えない。異国の血を引きながら、偉大なる創設者の再来と呼ばれる斗樹の存在。そのうえ、『オルブライト家』最高権力者である家長(斗樹にとっては曽祖父にあたる)から直々に、『オルブライト』を名乗ることを許されたとあっては、過激派にとってもはや憎悪の対象でしかない。
 だからこそ父ヴァージルは斗樹の身を案じ、日本に留まらせる選択を選んだのだ。そういった経緯もあり、斗樹は『オルブライト家』とはほとんど無縁となっていた。
 それを今更。そう、今更なのだ。排除したければ、とうに排除されている。過激派は目的のためなら手段を選ばないことだって想定していた。
 なぜ今なのか。考えても、わからない。









 車が停車したのは、一軒の洋館の前だった。
 『オルブライト家』が所有する数多の別邸ではなく、ヴァージル個人の持ち家である。派手な造りはない、古めかしい木造建築。景色に溶けこむようにそこに建っていた。
 斗樹はハロルドが開けるのを待たずに、自分で車のドアを開ける。
 長時間、車中に缶詰だったのだ。固まった身体を解すように背筋を伸ばし、屋敷へと視線を向ける。
 そして首を傾げた。
 屋敷の玄関扉に誰かが立っている。手にはやや小ぶりの鞄。見た目も若い。もしかしたら斗樹と同年代だろうか。青年と呼ぶにはまだ幼い、しかし少年と呼ぶには幼くない青年が立っていた。
「誰?」
 斗樹の存在に気づいたのか、青年は軽く会釈をした。
「初めまして。私、本日よりトキ様のお世話を言付かった、ルーファスと申します」
「そんな話、聞いておりませんよ」
 すかさず背後から、斗樹の荷物を抱えながらハロルドが口を挟む。
「急遽、決定されまして。お話がきちんと伝わってなかったのでしょう」
 ルーファスと名乗った相手は、ハロルドのキツイ視線など意に介さず、淡々と受け答えをしている。
「慣れない異国での生活を慮っての決定だそうです。私は使用人ですから、指示された通りにとしか」
「……本邸に連絡を」
「いいよ、カールトンさん」
 険しい表情でルーファスを睨んだまま、ハロルドが連絡のために携帯を取り出そうとしたを止めたのは斗樹だった。
「トキ様!」
 短く呼ばれた名前は、どこか非難めいた声色が混じっている。
「だって、わざわざ来てくれんだろう? これから人変えるったって、向こうだってそんな暇じゃないだろうし」
 ここでは自分は歓迎されない存在。その風潮は、それぞれの分家や貴人に仕える使用人たちも例外ではない。命令とはいえ、せっかく来てくれたのだ。無下にはできない。
「ですが……せめてヴァージル様配下の者を」
「だから、いいって」
 ハロルドが食い下がるのは、斗樹の身を案じてだ。だから斗樹の宿泊地を『オルブライト家』の息がかかった別邸ではなく、ヴァージル個人所有の屋敷にしたりと尽力した。
 ほんとに、ジジイどもは動きが早い。ハロルドは、内心で毒ついた。
「大丈夫だよ。俺だって弱くはないし……いざとなれば、朱砂がいるし」
「っ……わかりました、ヴァージル様にはそのように報告しておきます。ルーファス、と言いましたね」
 「朱砂」という名前が少し、効いたようだ。ヴァージルも大概息子に甘いが、このハロルドもやはり斗樹には甘かった。
 ハロルドは渋々引き下がり、その代わりと言わんばかりの鋭い眼光をルーファスへと向ける。
「トキ様の身の回り一切のことはお任せします。ですが、トキ様の身になにかあれば……わかっていますね?」
「重々承知しております」
 ルーファスは、しかと承知していると深く礼をとった。
 荷物をルーファスに託し、ハロルドは車に乗り込む。会社に戻るのだろう。
 斗樹は手を振り、その去りゆく車を見送った。



「長旅、お疲れ様でした」
「ホント疲れたー」
 古めかしい玄関扉が開かれ、しばらくの滞在の主を屋敷は迎え入れる。
 手入れは十分に行き届いており、すぐ使える状態になっていた。
「移動だけで1日潰したよ。あーもーダメ。ちょっと休む」
「至急お部屋を支度しますか?」
「いい、ソファーでちょっと横になる」
 斗樹はリビングルームのソファーにゴロッと横になる。慣れない異国。急激に変わった環境。それに加えて長時間のフライトと長時間の車移動。疲労はこれでもかというくらい溜まっていた。
「では、私は先にお荷物をお部屋に運びいれておきます」
「……うん……」
 最後はどこか舌足らずなで、しかしすぐに静かな寝息へとかわる。
 ルーファスはしばしの『主』の姿を見納め、荷物を持って仕事を開始した。









 ベッドメイキングを終え、部屋の窓を開け放つ。涼やかな風が薄いレースのカーテンを揺らした。
 1階へ戻り、リビングルームの前を通り過ぎようとしたが、ルーファスは足を止める。
 昏昏と眠り続ける斗樹。その傍らには1人の女性が寄り添っていた。
 陽光が当たると黄金色にも見える茜の髪。おおよそ型には沿っていない和装。まるで蝶の羽を思わせるような帯が、ふんわりと垂れ下がっている。
 そして一番に目をひくのが、体の至るところに巻かれた夥しい包帯。目元は隠され、それでも彼女が慈しみの心で斗樹の寝姿を眺めているのはよくわかった。
 朱砂。斗樹と契約した使鬼。『朱砂』という名を与えられた人間とは異なる存在。そして、『オルブライト家』が至高と称する『カルミヌス・ノクス』。
 彼女を召喚できたものは『オルブライト家』歴史上、創設者ただ1人。多くの術師たちが『彼女』という存在を欲し、破滅していった。召喚の難しさがより神聖さに拍車をかけた。
 だから斗樹が『彼女』を召喚できたのは偶然だと、誰もが口を揃えていう。ほとんどが妬みでしかなったが。
 斗樹の乱れた前髪をそっとかきあげる。まだ幼さを残す寝顔に、朱砂は口元を綻ばせた。
 きっと『偶然』ではない――ルーファスは漠然と思った。斗樹が『彼女』を喚んだのではない。『彼女』が斗樹を喚んだのだ。そう思えた。
 ぐるんと『彼女』が振り返る。そして口元に指を当て、首をかしげた。
 ルーファスの目の前にいるのは、至高とうたわれた上級精霊。その姿を間近で拝見できるのは、『オルブライト家』に列するものなら誰もが夢見る至福の時間。
「カルミヌス様においてもお変わりなく」
 深々とルーファスは朱砂に礼を取る。
 どうしても視線を合わせられない。目元は隠れているから視線など合わせようもないのだが、それでも『彼女』の視線には、どうしようもない威圧感を感じる。
 あれは――見透かす視線だ。
「…………」
 しばらく無言だったが、何かに至ったのか朱砂は立ち上がり、ルーファスへと近づく。足音を感じさせない歩きは、どこかフワフワとしていた。
 ルーファスの眼前に立つと、朱砂はニッコリと微笑んだ。『彼女』は言葉を持たないわけではない。しかし何も発さず、ただ微笑むだけ。
 きっと、他の者達なら見つめられるだけで舞い上がるのだろう。しかし、ルーファスの中に生まれたのは違う――恐怖だ。
「……すさ?」
 ソファーから寝言のように囁かれる呼び声に、朱砂はパッと翻る。やはり戻りも足音を感じさせない。
「なに、いつの間に影から抜け出て……、ルーファスさんに見られたら……え? 大丈夫、だって……? ……あー、それもそうか……」
 コソコソと内緒話をするかのように囁き合う2人。まるで睦言のようだとはおもったが、きっと2人は否定するだろう。斗樹にとって朱砂は、「母」であり「姉」であり、そして良き相棒なのだから。
 その2人の姿に、ルーファスは苦々しい思いを覚えた。