コツコツと、静寂に包まれた廊下に靴音が響く。
 長い黒髪を靡かせながら朱寿は黙々と歩く。響く靴音は朱寿のブーツから。その後ろを、縹も黙々とついていく。草履ゆえか、足音はあまり立たない。
 通った道に付けられていた防犯カメラは、ご丁寧に破壊済みだ。多少映り込んだとしても、気の利いた組の者がデータそのものをどうにかしてくれるだろうと推測している。
 本来なら密輸船が接岸する港へ向かいたいのだが、案の定敷地内は迷路のように入り組んでいる。建物を通らなくても良い経路もあるが、それでは時間に間に合わない。仕方なく、近道である建物を突っ切ることにしたのだ。
 事前に入手した資料――縹が昔の上司のところから手に入れたものの他に、偶然か古書店からも入手できた――によれば、あまり手の加えられていない部分や大きく増改築された部分とが散在している。
 朱寿と縹が近道と判断したこの建物は比較的、増改築の痕跡が薄かった。だからこそ選んだわけだが。

 ふと。朱寿が歩みを止める。ついで、縹も足を止めた。
 二人の位置から少し離れた距離に、向かい合うように白衣の男が立っている。
 研究所内は『過激派』『中立派』『穏健派』の三派閥に分けられる。といっても、名前まで律儀に覚える気はなく、リストアップされた人物の人相を重点的に覚えた。
 男は、ちょうど『過激派』のリスト内にあった人相に告示している。
 小瓶を手に、不敵な笑みを浮かべていた。相手はやる気満々のようである。
 縹は視線を僅かに逸らす。男ヘ至る道の途中に、右へそれる廊下があった。
「右」
 縹は短く方向だけを告げ、朱寿も心得たかのようにコクリと頷く。
 両者間に緊張が走る。その均衡を最初に破ったのは朱寿だ。
 体勢を素早く低め、踏み込む。ぞわりと黒髪が生き物のように広がり、朱寿は素早く指で髪を梳いた。指先に絡まった毛髪が、鋼鉄の針の如く形を変える。
 男は身構えた。髪の針が己を狙うと思ったのだろう。
 空を切って降り注いだ針は男の足場に突き刺さった。予想外だったのか、男はたじろぐ。
 その隙に朱寿は右へ伸びる廊下へと飛び込んだ。それに追従するように縹も飛び込む。その際、着物の左の袂がはためいた。
「おいおい、敵前逃亡とは……ん?」
 男は拍子抜けしていた。それもそうだろう、相手が録に攻撃もせず敵前逃亡したのだから。
 しかし、男の意識は遅れて耳に届いた落下音に向けられた。足元を見下ろせば。
 コロコロと転がる数個の黒い玉は――『(火薬玉)』だ。



 アーーーーーー……



 廊下を突き抜ける爆発音。そして遅れて届く、男の間抜けな叫び。
 思わず朱寿と縹は後ろを振り返った。遠目にもわかる烟と、漂い始める火薬の匂い。
「……老翁さま?」
「はて。目眩まし程度にと注文したはずなんだが」
 縹がゴソゴソと袖のなかをまさぐって取り出したのは、華火に使われる『星』という火薬玉。
「じじぃのやつ、火薬の配合間違えたか?」

 爆発音を聞きつけて集まった警備員と職員は見たもの、それは。
 朦朦と立ちこめる烟と火薬の匂い。そして男が持っていたと思われる薬品が辺り一帯にぶちまけられ、悲惨な状況になっていたなどとは。
 二人は知る由もない。

Thanks:toad
20 Aug. 2013