緑豊かな山の麓。避暑地としても有名なその地の高台に、年代を感じさせる洋館がこじんまりと建っている。屋敷には年老いた翁が住んでいるという。
庭には様々な植物が鬱蒼と茂り、セミが鳴いている。大きく開かれた縁側に置かれた古風な一人用ソファーに、老人が深く腰掛けていた。白髪は薄く、顔の皺は深い。
「先生、お客様がいらっしゃいました」
返事はない。それが当たり前かのように、若い世話人の男は客人を室内へと促した。
「……まだ生きておったか」
老いた、それでもはっきりとした発音が翁から響いた。
「それはお互い様じゃないか」
客人もまた不遜な態度で返す。その態度に気分を害するどころか、翁は大凡何十年ぶりの笑い声をあげた。
「久しいのぉ、四家井大尉」
「軍人は疾うの昔にやめた。今は只の一般市民だ」
「くっくっ……お主が『娑婆暮らし』に収まるとは思えんがのぉ」
翁は肩を奇妙な律動で揺らす。独特な笑い方は、昔のままだ。
「オレが世間話のためにここに来たわけじゃないことは、事前に知らせておいたはずだ」
「さて? 何の話だったかのう」
翁の直ぐ側の卓がけたたましい音を立てる。いつの間にか客人が傍らに立ち、卓の上に左手を置いていた。どうやら、先ほどの音は客人が卓を叩いた音のようだ。
「とぼけるな。『永代区』――あの再開発に一枚かんでいたことは知ってるんだ」
翁は再び独特な笑い方をする。
「あそこで何をしようとしてる?」
「そこまでは知らぬ。建設初期に軍部の技術者を提供しただけだからのう。老い先短い儂には必要のないものだ、好きに持ってゆけ」
客人が振り返れば、世話人が色褪せた茶封筒を手にしている。中身は客人が求める、『永代区』に関する資料だ。
「もう何十年も前のものだ。どこまで通用するかはわからんぞ」
「それでもないよりはマシだ」
「まったく、そんなもの手に入れて何をしようというのか」
「こっちの事情を話す気はない」
客人は取り付く島もない。茶封筒の中身を簡単に改めると脇に抱え、出口へと足を向けた。
「――のう、四家井」
客人は立ち止まるものの、振り返らない。
「軍に戻ってくる気はないか。異国では未だ戦争は終わらぬという。いつ我が国も――」
「戻る気はない」
翁の言葉を遮るように、客人ははっきりと答えた。
「オレも老いた。それに……オレの帰る場所は『
それだけを告げると、客人は後ろを振り返ることなく部屋を退出した。
相変わらず、セミは鳴き続けていた。
『――老翁さま?』
「朱寿か。そちらは?」
『……手筈、通りに。期日、までには……用意で、きる、そうです……』
「わかった。オレも数日の内にそちらへ帰る。組の者達にはそう伝えておいてくれ」
『……は…い』
途中で立ち寄った公衆電話で自宅へかければ、電話口にでたのは朱寿だった。縹は雑音混じりの会話のなかで用件だけを伝えた。細かい話は組に戻ってからのほうがいい。
電話を切り、人気のない坂を下り始める。ふと思い立ち、振り返った先には生い茂る木々に囲まれた古い洋館。先ほどまで縹が立ち寄っていた屋敷が遠くに見える。
決めたのだ、右腕を失った時に――否、失う前から。骨を埋める覚悟を。
「オレを待っているのは『死者』じゃないんでね」
手に入れたこの資料が、情報が少しでも役立つのなら。
縹は今度こそ振り返ること無く、西京市への帰路へとついた。