あれは終戦まもない頃。戦争に勝利し、国内が歓喜に湧いていた頃だったろうか。
退席した縹は、椿組本邸の廊下を歩いていた。家人たちは慌ただしく駆け回っている。騒がしいと一喝すれば、怒鳴られた組員たちは慌てて身を正すもやはり長くは保たない。
屋敷内が浮き足立つのも仕方がない。
ほんの数時間前、椿組総長から告げられた話は、椿組にとって大きな博打だった。これまで煮え湯を飲まされ続けてきたその苦渋。そのお礼参り。
多くの組員たちは賛同した。少々話の筋がわかっていなかったものもいたが。
だから今、家人たちはその『祭り』の準備のために駆けずり回っている。大凡、世間一般的な『祭り』とは程遠いものではあるが些細な事だ。
……荒神博ね
縹は音に鳴らない呟きを零す。
一度だけ見たことがある。演台に立ち、声高々と熱弁を振るう男の姿。アレこそを『
残念ながら、縹自身は日陰の世界で生きていくことを選んでしまったけれど。
『本物のカリスマ』を目の当たりにしているからこそ、あの男はどうにも薄っぺらく感じてしまうのだ。
「……つまらない感傷だな」
左腕で無造作に髪をかきあげる。さらりと、癖のある白髪が指の合間を流れ落ちた。
日は陰り、淡い誘導灯に照らされる石畳。その合間を生ぬるい風が吹き抜けていく。
玄関で家人たちに見送られた縹は、ふと、門の傍に聳え立つ椿の木を見やる。大きく腕を伸ばすように広がる枝の下、太い幹に寄り添うように女性が佇んでいた。
縹は嘆息をもらす。先に帰っているものとばかり思っていたからだ。
「朱寿」
名前を呼ばれた女性は顔を上げ、縹の姿を認めるとトテトテとその傍らへと寄ってくる。水色の瞳がじっと見上げていた。
「……
「帰ろうか」
コクリと女性は頷いた。
家人たちが送るという申し出を断り、二人は人の行き交う沿道を歩く。縹が楼主を務める料亭は歩いてもそれほど遠いわけではない。
「……怖いか?」
そっと呟かれた言葉に朱寿は顔を上げ、縹の顔を煽りみる。
「一歩間違えれば、お縄だからな。お前までオレと同じ道――」
「――いいえ」
はっきりと。力強く返された言葉に縹は立ち止まり、振り返る。
どこか幼さを残した、それでいて切れ長の両の瞳ははっきりと前を見据えていた。
「この道を選んだのは私自身。だから後悔はしていない、怖いとも思わない」
「……そうか」
夏の夜風がさらりと吹き抜けていく。
縹は袂の中から古ぼけた懐中時計を取り出した。キンッ、と金属音と共に蓋が開かれ、文字盤が顕になる。長い時を共にしてきた『相棒』は、昔も今も正確な時を刻んでいた。
もうすぐ店の開く時間であることを確認すると、袂のなかへと戻す。
「明日から忙しくなる。いろいろ『準備』することもあるからな――朱寿、お前にも手伝ってもらうが、いいな?」
瞼を瞬かせ、その言葉をしっかりと噛み締めた朱寿は、頬を緩ませた。
「はいっ!」
――さぁ、楽しい『祭り』の幕をあげようか
椿組の支部が襲撃を受けたのは、この数日後のことである。