背後からニャーと、か細い鳴き声が届いた。
縹は書き物をしていた机から身を起こし、振り返る。薄く開かれた襖の合間から、飼い猫の中で一番幼い子猫がじっと見つめていた。そしてもう一度、ニャーと鳴く。
他の飼い猫らと違い、まだ幼いこの黒猫はめったに縹の私室には近寄らない。母猫か、朱寿の後ろをついてまわるのが常だ。そんな子猫が、どういうわけか縹を呼ぶ。それだけでも珍しい。
縹は筆を起き、立ち上がる。いつもの歩調で襖に近づけば、子猫は慌てて身を翻す。襖を大きく開け、廊下を見ればやはり子猫は距離を取りつつもじっと縹を見つめている。まるで「来て欲しい」と言わんばかりに。
――はて、何処へ?
そして気づく。異様な静けさに包まれていることを。
外から聞こえてくるはずの近所の声が静まり返っている。
「朱寿」
縹は居間にいるはずの朱寿の名を呼ぶ。応えはない。
「朱寿」
もう一度。しかしやはり返事はなく、静寂を保ったままだ。拉致があかない。そう判断した縹は居間へと向かう。
その後ろを子猫が辿々しい足取りで追った。
「朱寿」
襖戸を開けば長閑な日差しが差し込んでいる。その縁側に彼の人は寝転んでいた。長い黒髪はざんばらに散り、休息を取るにしてはあまりよろしくない姿勢だ。まるで、糸の切れた操り人形のように……。
縹は足早に朱寿の側に寄り、その肩を揺さぶる。
「朱寿。おい、朱寿!」
語気を強めても、肩を揺さぶっても朱寿は目を覚ます気配がない。こんこんと正体を無くして眠り続けていた。
ひとまず楽な体制へと整える。その間も朱寿は微動だにしなかった。
どう考えても異常だ。
縹は眠り続ける朱寿をしばらく見下ろし、踵を返す。部屋の片隅に置かれた電話の受話器を取ると、自分の店へと掛けた。この時間なら昼の営業に向けた仕込みが始まっているはず。
しかし待てど暮らせど、呼び出し音の向こう側が出てくる気配はない。電話を切り、家をでる。
そして異様な光景を目にした。
道のいたるところで人々が倒れている。声を掛けても、肩を叩いても、朱寿と同様目を覚まさない。みな一様に深い眠りへと落ちていた。
その光景を前に縹は一息つくと、家の中へと戻る。いつの間にか朱寿の周りには、四家井家の飼い猫が揃い踏みしていた。その中で一際ガタイのいい黒猫――母猫が、じっと縹を見つめる。
獣ゆえの本能だろうか。いま起きている異常に勘づいているようだ。そして、まるで子を守るかのようにその姿は凛としていた。
「……しばらく出掛ける。その間、家と……朱寿を頼めるか?」
そっと指を伸ばせば、もちろんと言わんばかりに母猫は頬をすり寄せ答えた。
もしかしたらこの異常事態は組にも被害が及んでいるかも知れない。もちろん店のことも気がかりである。
縹は即座に身支度を整え、玄関に立つ。
「……行ってくる」
その声に、母猫がニャーンと応えた。