「申し訳ないけど、彼はまだここにはたどり着いていないよ」
 目の前の男が、少しだけ憂いの表情を浮かべた。

 固く閉ざされた『扉』の前に佇む一人の青年。フードの隙間から見える砂色の金髪がサラリと揺れる。淡く透き通ったエメラルド色の瞳がゆっくりと閉ざされた。
「この『扉』が他にもあるのか、残念ながら僕にはわからない……ごめんね」
「……そう」
 「わたし」は小さく息を吐いた。
 今に始まったことではない。時折、この『扉』の前に立っては目の前の青年に『彼』の行方を尋ねる。そうして決まって返ってくるのは、「来ていない」という答え。
「……まだ、待つのかい?」
 青年が静かに問いかけてくる。「わたし」はコクリと頷いた。
「百年――『扉』をくぐり死の国へ旅立つことも、『人』として転生することも拒み、この世を漂い続けるのは……辛くはないのかい?」
「あら、それは貴方様も同じでしょう? オルブライト家創設者、『グラス・シー』」
 青年がわずかに苦笑する。彼もまた『扉』をくぐることも、転生することすら拒絶して『扉』の前に留まっているのだ。
「そうだったね、アイリーン・オルブライト。……いや、今は『エレイン』と呼ぶほうが相応しいか、『湖の貴婦人』」
「『出来損ない』の、ね。それに、わたしの魂はもう『人』と呼べるようなものじゃないわ」
 「わたし」は肩をすくめる。
「消えることも、癒えることもない呪いを受けた魂がどうなるかなんて、わかりきってるでしょうに」
 「わたし」がまだ「人」だった頃。偉大なる女王の下、栄華を極めていた大英帝国。あの人に出会ったのは、そんな時代だった。
 『彼』は若くして両親を亡くし、その資産を引き継いで実業家として活躍していた。すぐに意気投合し、付き合いを重ね、そしてわたしたちは婚約した。
 いま思えば、その出会いすらこの「呪われた血」によって仕組まれていたのかもしれない――『彼』もまた、オルブライトの血を引くものだったのだから。
 結局『彼』を救おうとした代償として「わたし」は肉体を失い、魂は『狂気』に侵され異形へと。救われたはずの『彼』もまた、記憶と心の大部分を『狂気』に食われたまま。
 そうして血の歪みを重ねたオルブライトの血は、今も続いているのだ。
「……そして、その始まりは僕のせいだ。僕が……生きたい(ヽヽヽヽ)と願ってしまったから」
 青年が力なく笑う。
「自分が呪われてると知っていたのに。本当なら、この命を絶つべきだったのに……僕は繋げてしまった。生きたいと、願ってしまった。……申し訳ないと思ってる」
「そうね。貴方様が血を、子を繋いでいなければ今頃呪われた一族なんてなかったかもしれない。わたしも……マーヴィンだってあんな事にはなっていなかったかもしれない。そう考えれば、最初の貴方様のせいね――そう言われれば満足かしら?」
 青年が驚いた目で「わたし」を振り返る。
「貴方様のせいだと、咎めればすべて収まるの? すべてが終わるの? そうではないでしょう。この呪いは、最後の一人になっても決して終わらない。たとえ貴方様が命を絶っていたとしても、きっとこの呪いは別な方に宿り、また同じような運命を辿るわ。そういう呪いだもの」
 この『狂気』は狡猾だ。肉体のない呪いはどこへでも流れ漂う。より良い『器』を求めて。
「だから貴方様はたった一人でここに残っているのでしょう。『狂気』を、あちらの世界に連れて帰るために」
 青年は答えなかった。その静寂が雄弁に語っている。人の世に干渉できるほどの力は殆ど残されていない、それでも彼はずっと気の遠くなる月日の中でじっと待ち続けているのだ。
 『狂気』をあちらの世界へ導くこと。それが、己の本当の役目と信じて。
「……少し、言い過ぎましたかしらね」
「いや……あまりにも的確すぎて自分に笑いたくなるよ」
「わたしはこれにてお暇しますわ。マスター()がお気づきになる頃ですので」
 「わたし」はドレスの裾を軽く持ち上げ、会釈する。
「……はやく『彼』が見つかるといいね」
「そうですね……」
 いつもの別れの挨拶を交わし、「わたし」は青年へと背を向ける。その瞬間、周りが静寂と闇で満たされた。
 ……正直。半ば諦めてもいる、『彼』――マーヴィンと出会えることは。いくら救われたからといっても『狂気』から逃れられるはずもなく。特に『彼』は不完全だったとはいえ、一時『器』化を果たしているのだ。
 そんな貴重な魂をあの『狂気』が見逃すはずもないだろう。
「……マーヴィン、あとどれほど繰り返せば、この呪いは……悲しい犠牲は終わるのかしらね」
 その独り言は、闇の中へと吸い込まれた。





「おかえり、エレイン」
 聞き慣れた声がすぐ側から届き、「わたし」は振り返る。
 大きな出窓にそうように置かれた高級感あふれるアームチェアに浅く腰掛け、新聞を読む男。ヴァージル・オルブライト、「わたし」の契約主だ。
「まだ起きてらっしゃいましたか、マスター」
「うん、なにせ僕の使い魔筆頭がどっかに行っちゃってたしねぇ。そろそろ帰ってくる頃合いかなとは思ってたけどさ」
 新聞を少しだけ下げて、男は「わたし」へ小さく目配せを送ってくる。
 思えば、この男と契約を交わしたのはもう随分と昔になる。お互いが初めての主と使い魔というわけではないが、幾度と変わる使い魔の中で、気づけば「わたし」が一番の古参となっていた。
――君が噂の? ……なぁーんだ、皆がドラゴンだって言うからちょっと期待してたのに、君……ドラゴン種じゃなくて蛇でしょホントは
 鋭利な双角、背には二対の翼を持つがゆえにドラゴン種と間違われてきた長い年月の中で、唯一看破した貴重な魔術師でもある。まだ出会い間もなかった無邪気な顔をした少年は恐れ気もなく手を差し出し、契約を申し出たのだから肝が座っている。
「……相変わらず、おかしな人」
「そうかな? 僕は至って普通だと思ってるけど」
「それこそご冗談を。オルブライト家次期家長継承者」
「『元』、ね。今はただのオルブライト家の人間さ」
 そう。この男は、己の父や兄らを差し置いてオルブライト家の次期家長相続の指名を受けていながら、異国の女との結婚のためにあっさりとその権利を捨てたのだ。
 血族が喉から手が出るほど欲しがる大きな権威を、ああも簡単に手放せるのだからやはりおかしな男である。
 そして不可解なことがもう一つ。
「マスターはなぜ、あの子を呼び戻さないのですか?」
「んー、誰のこと?」
「貴方の息子のことです」
 男の表情は新聞に隠れたままだ。。
 この男にはたった一人の息子がいる。今は遠く離れた日本の奥方の実家に預けられたまま、歳はとうに二十歳を超えたとか。しかしこの男はその息子を呼び戻すような行動を微塵も見せない。
 だからこの男の本心がわからない。
「矛盾しています。愛していると囁きながら、なぜ手元に置いておかないのですか? あの頃はまだ力も安定していなかったから環境の変化を考慮して、日本へ残した。でももうその心配はないのでしょう? それなのになぜ」
 バサリと。乾いた紙の音がテーブルの上へと放り出された。
「斗樹をオルブライトの家に押し込めるつもりはないよ。それを僕は条件に入れてない」
 表情は相変わらず陽気だが、その眼は冷たい色を浮かべている。
「『愛している』からこそ、斗樹には『外』にいて欲しいのさ。オルブライトのなかには良からぬことを考えるやつが多すぎるからね……」
「そうね……。混血であるあの子を厭うものは多い。ましてや、あの子の持つ潜在力は計り知れない。その力を欲しがるものも、少なくないわね」
「そういうこと」
 「わたし」はそっと窓の外を見やる。民家の灯火が漆黒の闇の中で点々と灯っている。
 純血主義者が多いオルブライト家において、異国の血は忌避される。たとえ直系に列するものといえどもだ。
 それでも。
「貴方は、あの子を失うことが怖くないの?」
 オルブライト家血族の序列が一斉に入れ替えられたあの騒動。事の発端には、この男の息子が関わっていた。
 あの日。あの子供は一人の精霊を手に掛けた。愛し合っていたはずの相手が実は刺客であり、殺さざるをえない気持ちはどんなものだったのだろうか。しかし一番奇妙なのは、刺客だと気づいていながら、子供から遠ざけようとしなかったこの男の考えだ。
 秘書の男は何度も進言していた。一刻も早く引き離すべきだと。しかし、この男はその要求を一切合切受け入れなかった。そしてあの事件は起きた。
 いまを思えば、この男はあの事件が起きることを望んでいたのかもしれない。
「怖いに決まってるよ。斗樹は僕の大切な一人息子、由里音の忘れ形見だもの」
「そのわりには、随分と危険な賭けをなされたのでは?」
 だからといって、あの子供の命が失われる可能性はあった。生きるか死ぬか、その二択しかなかったのだから。
「仮にあの子が自ら『死』を望んだとして……それでも貴方は止めるつもりはないのですか?」
 あの子供が『死』に惹かれていたことはわかっていたことだ。読みを間違えれば、この男は大切なモノを永遠に失うことになるというのに。
「それが斗樹の望むことなら、僕に邪魔をする権利はないね」
 ああ、まただ。またそうやって本心を隠してしまう。
「エレイン。僕は『オルブライト家』になんの未練もないんだ。今いるこの地位だって僕にとってはなんの価値もないんだよ。僕としては、いますぐにでも日本で斗樹と暮らしたいくらいさ」
 ただね、と男は言葉を紡ぐ。
「ちょーと無理を通したからさ、その交換条件があるんだ。あ、条件内容は教えないよ? ハルにも言ってないから内緒ね」
 そういいながら、男はウィンクを寄越してくる。この話はこれで終わりという合図だ。こうなれば男はどうあっても口を割らないことを、長年の経験で知っている。
「……わかりました。わたしはこれにて失礼いたします」
「うん、お休み」
「お休みなさいませ、良い夢を」
 そして「わたし」はそっと気配と姿をかき消した。





 私室を通りぬけて寝室に入った男は、夕闇に沈んだ室内で上辺の仮面をようやく外す。
「仕方ないだろう、そういう契約なんだから……」
 制御不可能の『狂気』を発現したことで危険視された男の息子は、本来なら幽閉されるはずだった。太陽の光すら届かない地下の水牢に閉ざされ、自我を封じ込められ、力だけが引きぬかれていく。
 様々な魔術実験を行っている者らにとっては、使い勝手のよいエネルギー源としか見ない。そして力を、自我を奪われた者はさらなる深淵へと打ち捨てられる。そうやってオルブライト家の歴史の影に消えていった命はいくつもある。
 だからこそ、止めたかった。そのために交換条件を受け入れた。
 息子を『外』へ出すかわりに、男はオルブライト家へ留まった。そして、一切の手出しを禁じられたのだ。息子を助けたくとも手を貸すことは許されず、『中立』でいることを強いられた。男にとって幸運なのは、オルブライト家に対しても手を貸す義理がないことだ。
 あの事件はある種、契約を逆手に取った粛清ともいえる。
 それでも男にはやはり心穏やかではなかった。なにせ、息子の命がかかっていたのだから。
 交換条件を交わした相手はもう亡い。しかし契約はそのまま引き継がれた。だから男は未だ『ここ』にいる。
 そして、男の息子には『力』がある。その気になれば、オルブライト家そして列なる血族すべてを終わらせるだけの『力』があるのだ。もし息子がそれを望んだのなら、男はその運命を受け入れるつもりだ。
 男が望んだのは、ささやかな幸せだった。愛する妻と息子と。だから家長相続権も後腐れなく放棄した。そんなものよりも『暖かい家族』が欲しかったから。
 そして男は行動を始めた。愛する息子のために。呪われた『古の血』――『狂気』から解き放つために。
 手元のスタンドライトを灯せば、暗闇に沈んでいた室内がほのかな色合いに染まる。テーブルの上には、封のなされていない一通の封筒。そのなかには紙の束が入っている。男の秘書が少しずつ集めた情報の報告書だ。
 長い年月の中で失われつつあるオルブライト家の歴史。『初代』へと辿り着ければ、『狂気』に対する何らかの手立てがわかるのではないか。そんな一縷の望みにかけているのだ。
「絶対に見つけてみせるよ、その方法を」
 それは、静かな男の決意でもある。






「…………」
 「わたし」はそっと庭に佇む。庭を色とりどりの花々が広がっている。
「いつか、そこへたどり着いてくれるかしら」
 主でもある男が『狂気』に関する情報を集めているのは知っていた。自分の息子を『狂気』から開放させるために。
 もし。男が呪いを解き放つ方法を見つけたとしたら、『オルブライト家』はどうなるのだろうか。『狂気』に食われた魂はどうなるのだろうか。
 あの子供は、あの青年は、そして「わたし」はどうなるのだろうか。
「『神のみぞ知る』、かしら?」

 誰もいない庭を一陣の風が通り過ぎた。

(2014/08/27)
Thanks : toad