「あの……あなたは、だれ、ですか?」
 そこにあったのは確かに見慣れた色で。だけど、浮かぶ色は『怯え』だった。



 客間として使っている一室の入り口に立ちながら、舟水はぼんやりと昨晩のことを思い浮かべていた。
 特段変わったことはなかった。普通に夕食をともにし、普通に語らい、ただ少々わけあって同衾を断ったぐらいだ。断った理由は些細な事だったし、不満気にしてはいたものの相手も受け入れてくれた。ちょっと、いや、しつこいくらい寝際のキスを求められたが、それも普段の範疇だ。
 だからほんとに、前兆はなかった。朝食の時間になっても起きてこなかったので、様子を見に行ったらこれだ。
 確かに見た目は舟水の知る坂上そのものだ。しかしどうしても、普段を知る坂上と目の前の『坂上』が結びつかない。
 一方の坂上の姿をした『誰か』はベッドの上で狼狽えていた。目を覚ませば見慣れぬ天井と部屋、そして現れた見知らぬ人。それが『坂上』の今の状況だ。
 なんとも言えない沈黙だけがすぎる。
 その時、『坂上』の影が揺れ、ずるりと形を変える。影は人型に、そして赤毛を翻した女性へ。朱砂だ。もっとも『坂上』の近くにある彼女なら、なにか事情がわかるかもしれない。そんな淡い舟水の期待は、残念ながら早々に崩れ去った。
 使鬼であり相棒であるはずの朱砂の姿を見るなり、『坂上』は盛大に後ずさった。表情も恐怖に彩られている。本来の『坂上』ならまずしない反応だ。そのあからさまな拒絶に、朱砂の動きが止まる。表情はそのままでも、明らかにショックを受けていた。
 なんとも面倒なことになった。舟水は再びぼんやりと思案する。
「名前は?」
「え?」
「名前。お前の」
 『坂上』は相変わらず怯えた目を向けている。舟水の言葉の意味を測りかねているのだろう。
「さかがみ……とき」
 同じ名前が返ってきた。ならばと。
「歳は?」
「……きゅうさい」
 その言葉にピクリと朱砂の肩が動き、ただ傍らで見守っていたわたあめが舟水を煽り見る。
「……ひとまず、ダイニングに来てくれ。朝食がある。話はそこで」
 ここに突っ立っていたってこれ以上の進展はこない。そう判断するとあとの行動は早かった。舟水は戻ろうと踵を返す。
「え、あの、まっ――!」
 未だに混乱から抜け出せない『坂上』は、思わず追いすがろうとしてベッドから転げ落ちた。慌ててわたあめが駆け寄る。
「大丈夫ですか、坂上さん!」
 目測を誤ったのか。さほど高い位置からではないとはいえ、打ち所が悪ければ最悪の場合だってあり得る。しかし、『坂上』は驚いたように目を見開き、自分の手を見ていた。
「……へ?」
 ようやく、己の身の違和感に気づいたのか。両手をマジマジと眺め、そしてベタベタと身体を触る。言葉もなく舟水へ向けられた『坂上』の視線は困惑に満ちていた。
「わた、誘導はお前に任せる」
「はーい」
 大役を任されたわたあめは、背筋を伸ばして明朗に返事を返した。舟水がそばにいるより、親しみやすいわたあめのほうが気がほぐれるだろう、そう判断した結果だ。

「で、だ。心当たりは?」
 客間を早々に退出し、リビングへの戻り掛けに舟水は背後の朱砂に話しかけた。一方の朱砂は、先程の『坂上』に拒絶されたショックを引きずってはいたが、その問いに答えるように首を横に振る。
 否だ。
 そもそも心当たりがあったのなら、こんなことにはなっていない。
「手がかり、なしか」
 前兆もなければ予兆もない。思い当たる節もない。しかし、確実に『坂上』の精神が退行していたということは、変えようのない現実だった。



 舟水から前置きなく切りだされた話に、『坂上』はぱちくりと目を瞬かせた。
「たいこう……ですか?」
 不慣れな手付きでフォークを持ち、朝食を口に運ぶ『坂上』の動作はいつもより鈍い。舟水から当たり前のように渡された箸ですら、どうにもうまく持てなかったくらいだ。
「そ。本来の坂上は二十歳を過ぎてる。だが、今のお前は『自分は九歳』だといった。なら、精神だけが昔に戻ってる、そう考えるのが妥当だ」
 事実、いまの『坂上』はモノとの距離感を測りかねている。無理もない、成人男性と九歳の体つきは大きく異る。朝方、ベッドから転げ落ちたのも、いつもなら平気な箸がうまく扱えなかったのもそのためだ。
「なんで、そんなことに?」
「さあな」
 それは舟水も知りたい。昨晩、それぞれの寝所に分かれるまでは普通だったのに。朝起きたら精神だけが子供に戻っていたのだから。
 何か術をかけられたのなら、彼の使鬼である朱砂がいの一番に気づくはず。舟水も簡単にではあるが気配を探っても、そういった類の術の気配は感じ取れなかった。
(めんどい……)
 食後のコーヒーをすすりながら、舟水はぼんやりと思う。正直、面倒事でしかない。これがひと時の現象なのか、明日には治っているのか、それとも――。
「……どうした」
 幼気な所作の『坂上』が、なにか聞きたげな目線を向けていた。それに舟水は気づく。
「いえ……あなたの、名前……知らなくて」
「あぁ……」
 そういわれて、名前を改めて名乗っていなかったことに気づいた。
「舟水、千秋。こっちはわたあめ」
 いつぞや言葉を交わしたあの時のように、舟水は己と自身の使鬼の名前をあげる。
「ちあきさんと、わたあめさん、ですね」
「…………」
「っ! な、にか、まちがえ、ました?」
「いや……なんでもない」
 聞き慣れない呼び方に、舟水の心が一瞬心が揺らめいた。
 坂上が、今まで一度も舟水を下の名前で呼んだことがなかったことに、いまさらながらに気づいた。気づいたところで、特になにかあるわけでもない。ただ、それだけだと思えば、揺らいだ心は静まった。
「それで、あの……、あなたとぼくとの関係は、なんなんですか?」
「『付かず離れずの知人』」
 案の定、『坂上』は疑問符を浮かべながら首をかしげていた。『坂上』にとってそれは、『他人』と同じにしか思えなかっただろう。だからといって、あけすけに肉体関係があるといっても余計混乱するだけだ。それに、嘘はいっていない。
「えっと……おとなのせかいは、よく、わからないです……」
 ぽつりと。『坂上』はそう呟いた。





 存外、平穏な時間が過ぎた。
 朝食を終えて、片付けは皆で行った。動きや手付きは相変わらず危うい『坂上』ではあったが、手伝えることは進んで手伝いをかってでた。
 だから舟水は仕事の為に自室へ戻り、『坂上』はわたあめと一緒に洗濯をまわす。日差しは暖かく、今日は気持よく洗濯物も乾くだろう。
 仕事に一区切りついた舟水は、コーヒーカップを手に自室から出てきた。リビングに差し掛かると、日当たりのいい場所に大きな塊が蹲っている。『坂上』とわたあめだ。
 どうやら陽気に誘われて、眠りに落ちてしまったのだろう。二人とも、気持ちよさそうに寝息をたてていた。
 それを一人、舟水は静かに見下ろしカップに残っていたコーヒーをすする。熱は冷めかけていた。バルコニーへと通じるガラス戸を静かに開ければ、温かみのある風が部屋へと吹き込んできた。
 これは確かに睡魔に誘われても仕方がない。
 手すりに寄りかかりながら、舟水は眼下の街を見下ろす。街の遠くからはいつもの喧騒が響いていた。
「……」
 くるりと身体を反転させる。先程までわたあめと一緒に気持ちよく眠っていたはずの『坂上』が、音もなく上体をあげ、舟水を見つめていた。
 その目は、どこまでも透き通った色をしている。
「お前――俺が怖いのか」
 不躾な言葉に対して『坂上』は何の反応も返さず、ただ真っ直ぐな視線を向けてくるだけ。
 違和感が確信に変わるのに、そう時間はかからなかった。最初は単純な『見知らぬ人への恐怖』だと思っていた。精神も記憶も逆行してしまったのだから、それは仕方ない。だが、事あるごとに向けられる視線に交じる『恐れ』は、決して薄れることがなかった。
 ふと。『坂上』の視線が彷徨う。言っていいものか否か、それを考えあぐねているのだろうか。
 目を閉じ、次に瞳が拓かれ、その色が舟水に向けられたとき、『坂上』の顔は暖かみを感じない人形じみた表情を浮かべていた。
「――怖いよ。僕が、というよりは、僕の中の”こいつ”があなたを怖がってる」
 そういいながら『坂上』は口尻をゆるく上げる。”こいつ”とは、おそらく『狂気』のことだろうと、あたりをつける 
「なぜ恐れる?」
「あなたが”こいつ”を殺せるから」
 朝方の『坂上』とはうってかわって、声色も氷のように冷たい。言の葉一つ一つに熱を感じないのだ。その上、なんでもないかのように物騒な言葉をさらりと呟く。
「なぜそう思う?」
「わからない。ただ、あなたの力は確かに”こいつ”を殺せる、それだけ」
 もとより相性が悪いことはわかっていた。惹かれ合い、そして反発しあう。舟水の力と坂上の力はそういう位置関係にあった。
「お前は誰なんだ」
 目の前にいる『坂上』の姿をした『誰か』は静かに答えた。
「壊れる前の『坂上斗樹』だったもの、かな」
 思わぬ答えに舟水は言葉を失う。
 壊れる前? 『坂上斗樹』だったもの?
「”こいつ”に粉々に砕かれた『坂上斗樹』の心。その殆どは、”こいつ”と同化しちゃった。だから本来なら、僕はもう存在しない存在なんだ」
「意味がわからんな」
「だろうね。でもそうとしか言えない。だって、あなた、”こいつ”の一部を固めちゃったでしょ?」
 それは以前、坂上の狂気を一部圧縮させてみせたことを指すのだろうか。それを機に、坂上は時折その方法を求めるようになった。
「ずれ、みたいなものかな。本当なら同化した僕も一緒に固められて眠るはずだったのに。どうしてか、この今だけ意識が表にでてきちゃった」
 そんなことが起こるのだろうか。『狂気』を固めただけで、現れるはずのない潜在意識がでてくるなど、舟水には理解しがたい。
 一方の『坂上』も、理解されたいとは思ってもいないようで、話の内容はポンポン飛ぶ。
「”こいつ”がいつから僕の中にいたかは、よく覚えてない。ただ気づいた時には、もう既にいた。そしてずっと叫んでるんだ――叫んでる内容はさっぱりわからないけど。でもね。わかることもある。”こいつ”はあなたを恐れてる、だけど同時に、あなたの力に惹かれてもいる。不思議だね」
 不思議という言葉をそっくりそのまま返してやりたかった。
「――と。時間だ」
 『坂上』がそろりと立ち上がる。
「時間?」
「言ったよ。これは『ずれ』のようなものだって。だから、もう僕も眠る――もう二度と目覚めない眠りにね」
 舟水は何も言わなかった。同化している以上、この『坂上』は狂気側に引っ張られる。そして同化していた部分は、既に舟水の封印湖の力によって圧縮されている。たとえ、圧縮を紐解いたからといって、同化した意識も戻ってくる保証はない。今回のは偶々ともいえるイレギュラーが起きただけなのだ。
「僕が消えれば、因果律は正される」
「お前との会話は?」
「最初からなかったことにされる。だってそうでしょ? 僕は存在しない存在なんだから。僕が消えれば、全て書き換えられる。そんなことがあったことすら覚えちゃいない。誰もね」
 男の手にしてはほっそりした指先が、舟水の頬をゆるく撫でる。
「最後にあなたと話せてよかった。次の瞬間には覚えてないだろうけど」
 翡翠色の瞳が、少しだけ寂しそうに揺らぐ。
 さよなら。音もなく、『坂上』の唇が小さく紡いだ。



「……さん――舟水さん」
 舟水の視界に、鮮やかなエメラルド色が映り込む
「どうしたんですか、急にぼーとしちゃって」
 首を傾げながら、坂上は問う。
「……いや、なんでもない。それで? 何の話だったか」
「お昼の話です! 天気もいいですし、今日は外に食べに行きましょ!」
 そう言われて、舟水は外を見上げる。確かに空は気持ちいいほど晴れわたっていた。
「そうだな」
「決まり、ですね。昨日来るとき、新しいお店ができてたの見かけたんですよ。そこ、行ってみましょ!」
 陽気に、鼻歌でも歌い出しそうなくらい坂上は楽しげだ。
「わたあめさん、起きて起きて」
「ぅんー……あれ、僕、寝ちゃってたの? うぅ、ごめんなさい」
「仕方ないよ。暖かくて、気持ちよかったしね。今日のランチは外食になったから、わたあめさんも出かける支度しようか」
「わかった」
 力強く頷きながら、わたあめが立ち上がる。部屋着から外出向きの服へ変えなければいけないからだ。
 そんな楽しげな二人を眺めながら、舟水はコーヒーカップを持ち上げ、そして既に空になっていることに気づく。いつまでも空のカップを持っていても意味は無い。舟水はひとまずシンクにカップを置き、自身もまた着替えるために自室へと戻る。

 空はどこまでも蒼く澄み渡っていた。

忘れ去られた記憶は、いまも昏い闇の揺籃のなかで眠る(2015/11/07)
Thanks : toad