鳥の囀りに、斗樹は頭をもたげる。
 貸し与えられた部屋の窓の外はいつの間にか白ばみ、人々の営みの音が聞こえ始めていた。どうやら昨晩提示された案に対して、悶々と悩んでいるうちに夜が開けてしまったらしい。
 射しこむ朝日を暫く眺めていたが、斗樹はのそりとベッドから這い出る。ろくに寝ていないため、顔はひどい有様だ。それでも起きざるをえず、眠気を抑えて部屋のドアに手を掛けた。

「おはよう」
「……おはよう、ございます」
 重い足取りでダイニングルームまで辿り着くと、家主である舟水はすでに席についていた。その傍らには、彼の使鬼であるわたあめも行儀よく椅子に座っている。どうやら一足先に朝食を済ませてしまったようだ。
 一呼吸置いて、斗樹もまた朝の挨拶を返す。
 テーブルの上には斗樹の分の支度もなされていた。示された席に着席する。美味しそうな香りが鼻をくすぐった。
「それで? 代替案は思い浮かんだのか?」
 さっそく舟水が前置きなく切り込んできた。代替案――昨晩提示された『付かず離れるずの知人関係』。それに変わる有効な案があるのなら、後で聞くと言われていた。その言葉に斗樹は動きを止めて、じっと舟水を見つめる。相手は表情を変えず、斗樹の言葉を待っていた。
 斗樹は肩の力を抜き、そっと目を伏せる。そして、重々しく口を開いた。




 結局、どんなに考えても答えはでなかった。だから提示された案を受け入れるしかなかった。
 必死になって考えた。どうすれば良かったのか。どうあればよかったのか。ありとあらゆる可能性を尽く潰してしまったのは、自分の所為なわけだけど。

「付かず離れずの知人……かぁ」
 『苦手』だと、隠すことなく舟水から本心を告げられたときは、心が挫けそうだった。あのまま自我を手放していたなら、きっと今頃自分はここにはいなかったかもしれない。少なくとも、関係を完全に断たれなかっただけでもありがたいと思わなければ。
 目の前で黒地のカードをクルクル回しながら、斗樹はここ数日の出来事を整理する。
 舟水千秋。出版社の社員として働く以前は、スウェーデン軍にて軍用機のパイロットをしていたこと。そして軍神トールの末裔であること。その身には神器が収められ、その封印のために彼の感情が使われているということ。
 神の末裔が事実かどうかは斗樹には判断できない。しかし、舟水が持つ力は底知れないものであることだけは確証が持てた。溢れてくる『狂気』を抑えこむことしかできないと思っていたなかで、その『狂気』を圧縮してみせたのだから。
 実のところ『狂気』について詳しく知るものは、肝心のオルブライト家にですらほとんどいない。古い文献や資料といった類は、とある火災によって焼失してしまったらしい。数少ない口伝が今に伝わるだけだ。
 初代由来の呪い、それが『狂気』。なぜ『狂気』と呼ばれるのか。なぜ呪いは継承されていくのか。『狂気』の正体すらわからないまま、オルブライト家はその血を繋ぎ続けている。もしかしたら、その奇行そのものが『狂気』と呼ばれる所以なのかもしれない。
 そしてなにより衝撃だったのは、ただ一度の接触が舟水の選択肢を縛ってしまったことだ。斗樹にそんなつもりはなく、しかし結果的にそうなってしまったことは揺るがない事実である。
 舟水の中に眠る力は神が振るう『神器』。すなわち『使われる』力、支配される存在だ。そう考えれば、道理ともいえる。
 もちろん、斗樹に支配したいなどそんな願望はない。むしろ『狂気』を欲したことなど一度もないのだ。それほどまでに呪われた血は残酷で無慈悲だ。
 もし――もし、自分がいなくなれば。自分という存在を無くしてしまえば。彼は――そこまで考えて、斗樹は慌ててその仄昏い考えを打ち消す。
 それでは昔の自分(ヽヽヽヽ)となにも変わらないではないか。
 生きることに疲れ、それでいて自分で命を絶つ勇気もなくて、誰かに終わりを委ねた過去の自分。そんな自分と決別すると決めたのだ。前を向いて、生きることを始めようと決意したのだ。
 できれば、彼とともに歩み、生きたいと。
 斗樹は心落ち着け、今一度考える。『狂気』に支配されれば、失うのは自分の心だけじゃない。ではどうすればいいのか。『狂気』に支配されないこと、すなわち掌握すること。
 そして浮かぶ、舟水が見せた技。利用云々を抜きにしても、『狂気』を圧縮させるという方法は斗樹にとって斬新な方法だった。もっとも、その技をそのまま習得できるかどうかは、別の話ではあるが。
 暫くぼんやりと視線を漂わせていた斗樹だったか、おもむろに立ち上がる。と同時に、ふわりと空から舞い降りたのは赤毛の女性。前に垂らした髪が、大きな帯のたれが優美に翻る。
 斗樹の使鬼である朱砂だ。
「……うん、ありがとう」
 音を伴わい彼女の声を受け止めた斗樹は、鷹揚に頷く。結界を張ることが苦手な斗樹にとって、朱砂は頼れる相棒でもある。
 どうやら予想通り、目標が仕掛けていた罠にかかったらしい。朱砂を伴いながら歩き出す。結界のお陰で人気はなく、虫の音すら聞こえないさまは異様な静寂ともいえる。
 『組合』に持ち込まれていた数々の依頼や情報。そのなかから幾つかピックアップした目撃情報にもとづいて罠を仕掛けた。その罠にはまって、その場で蠢いているのは瘴気の塊――禍。
 斗樹は先ほどまでいじっていたカードを改めて翳す。考案したばかりの新しい術式。その効果を試したくて、手頃な相手を探していた。精霊や人を実験対象にするのを毛嫌いする斗樹にとって、禍の存在は格好の実験対象だった。ついでに禍も排除できるのだから、一石二鳥である。
「悪いけど、俺の実験に付き合ってもらうよ」
 黒いカードが、その面に描かれた赤い不可思議な紋様から淡い光がこぼれ始めた。





「……」
「…………」
 静寂のなか、斗樹と朱砂が覗きこむようにじっと地面を見つめている。視線の先には無残にも敗れたカードの残骸。
「……、失敗……かな」
 ぽつりと呟いた斗樹の言葉に、朱砂はことりの首を傾げた。斗樹はなんとも言えない雰囲気をごまかすように頭を掻いた。
 対象物を圧縮する術式。のはずなのだが、力の配分が安定していなかったのか圧縮どころかあっさりと禍が消滅してしまった。その負荷に耐え切れなかったのか、術式の核であるカードも一緒に粉々に千切れたのだ。
 もちろん禍と『狂気』とは性質が異なるのだから、実際どうなるかは未知数ではある。が、このぶんだと『狂気』を圧縮するどころか斗樹自身が危うい状態になりそうなのは明白だった。
「要改良、かぁ……」
 そうそう簡単にいくとは思っていないが、あんまりな結果に斗樹は肩を落とす。もっと文献や魔術書を読みあさらないといけない。
「――あっ、時間……っ」
 携帯の画面に表示された時刻に斗樹は慌てた。地面に落ちているカードの残骸をかき集め、カバンの中へと押し込んだ。



 体力がないのは自覚している。息が切れそうなのをなんとか耐えきり、待ち合わせ場所へ辿り着く。待ち合わせをしていた相手はすでにそこにいた。
「舟水さんっ」
 スーツに身を包む長身の男性は、斗樹の呼びかけに気づきこちらを振り返る。
 「苦手」と言われてもいい。本当は「嫌い」でも、いい。……いや、ちょっと傷つくけれど。いまはただ、あなたのそばにまだいられる幸せを噛み締めて。

「……絶対、見つけてみせるよ」
「ん? ……なにか言ったか?」
「いいえ、なにも!」

(2014/10/05)
Thanks : 夢に見る、無限の蝶