『明日の同じ時間に、……あのカフェのいつもの場所で、待ってます』
 タイミングを測ったかのように、携帯電話の留守電に残されていたメッセージ。要件だけを伝える声は固く、いつもの柔らかく楽しげな色はない。
 脳裏を過ったのは、最後に見た、心傷ついた顔だった。





 遡ること、一週間前。
 斗樹は自分のベッドの上に横たわり、天井を見つめていた。その表情はどことなく虚ろさを漂わせている。
 あのカフェからどうやって帰ってきたのかあまり記憶が無い。気づいた時には家にいて、祖父母が何事か心配げな様子で声をかけてきたのまでは覚えている。しかし声は耳に届かず、斗樹はそのまま部屋へ閉じこもった。
 室内は静寂に包まれている。いつもなら、傍らにいるはずの朱砂の姿もない。一人になりたいと言って、斗樹が部屋から追い出したのだ。部屋の外で蹲っている気配だけは、微かに感じ取れた。
 いま、斗樹の中では『狂気』が激しく渦巻いている。そんな状況下で朱砂が内包する『狂気』の真髄とが共振を起こせば、その激流を食い止めることは困難を極める。下手をすれば、斗樹の精神が崩壊しかねない。
 故に朱砂は寄り添いたい気持ちを抑え、それに従うしかなかった。
 浅く繰り返される呼吸。斗樹は、数時間前に言われた舟水の言葉を反芻する。
――気づいているんだろう?
――お前、自分で言ったんだぞ。『裏切ったのは、本当は守るためだった』って。
 斗樹は唇を強く噛みしめる。じんわりと、口内に鉄錆た味が広がった。
 ああそうだ。気づいてた。気づいててそれでも受け入れたくなくて。だからずっと向き合おうとしなかった。俺だって、ルーファを利用しようとしてたくせに――!
 あの日。ルーファスに対して芽生えた「憎愛」に『狂気』が呼応した。あの一瞬だけ、確かに『狂気』は斗樹の支配下にあった。
 「憎愛」を持ち続けなければ『狂気』を抑えきれないというのは、皮肉な結果でしかない。
――命を差し出してまでお前を助けた結果が憎愛か。死に損だな。同情するよ。
 舟水の言葉が深く、深く突き刺さる。
(俺だって憎みたくない……だけど憎まなきゃ、憎み続けなきゃ……『俺』でいられない)
 それは只の言い訳だと、昏い深淵から『狂気』が嘲笑っている。
「――っ」
 痛い。苦しい。頭痛も酷くなり始め、斗樹は身体を丸めるように蹲った。
 チャリッ……と、聞き慣れない音とともに指先が何かに触れる。視線を向ければ、二枚の金属プレートが繋がれたチェーンが無造作に置かれていた。
 舟水が置いていった、プレートネックレス。斗樹はその一枚に触れ、プレートに刻印された英語をなぞる。
「スウェディッシュ、エアフォースキャップ……アラン・エフ……トール・ノーベル……」
 『元スウェーデン空軍大尉』。それが嘗ての舟水の肩書。『アラン』というのが、スウェーデン人としての名前なのだろう。
――俺も、命令を受けて誰かを殺す側に立っていた、と言ったら、お前はどうする?
 そう言われて、何も答えられなかった。いや、考えられなかったといってもいい。自分の事で精一杯で、他に気をまわしていられる余裕などなかった。
 そして、強く突きつけられた拒絶。だから、『終わった』のだと思った。
――一週間やる。その間、そのタグの意味を真剣に悩め。
 絶望の淵にあって、与えられた僅かな猶予。その一週間の間に『意味』を見出さなければならない。斗樹はそのプレートを強く、強く握りしめた。






――そして、覚悟を決めた

 昨晩残したメッセージ通りに、斗樹はカフェの奥まった場所にある席に座りながら、ぼんやりと思いふけっていた。
 結果がどうなるかなどわからない。たとえ本当に『終わり』を迎えたとしても、それは自業自得でしかない。
 いや。何も始まってなどいなかったのだ。一方的な想いだけを押し付けて、自分の理想を、都合だけを押し付けて、相手の気持など顧みていなかった。
――甘やかしてばかりじゃいつまで経っても坂上は子供のままだ。
 斗樹は小さく自嘲めいた笑みを浮かべる。
 そうかもしれない。きっと今の自分は、新しい玩具を手に入れて喜ぶ『子供』そのものだ。
 人の気配を感じて、斗樹はゆったりとそちらへ顔を向ける。視線の先に立っていたのは、スーツ姿の男――舟水だ。
「……来てくれて、ありがとうございます」
「一週間と決めたのは俺だしな」
 言葉を交わしながら、舟水は斗樹と対面する席へと腰を据える。その足元に、舟水の使鬼であるわたあめが蹲った。
 窶れただろうか、舟水は斗樹の顔色を見てふと思い立つ。いつもの陽気さは陰を潜め、もともと西洋人よりの容姿ゆえに白味を帯びた肌はより白さを増しているようにも見える。
 ふわりと。視界の片隅を朱い蝶が通り過ぎる。同時に、空気が変わったことに舟水は気づいた。居心地が悪いわけではないが、それでも明らかに異質さが際立っている。
「結界を張りました」
 舟水の疑問に答えるかのように、斗樹は静かに告げた。
「結界を張るのが苦手だから、朱砂に頼んだんです。少し……違和感を感じるかもしれません」
 だから珍しく、彼女(ヽヽ)が「外」にいるのか。
 舟水は斗樹の背後、壁に寄りかかって立つ女性――朱砂に視線を向ける。普段、斗樹の影の中に隠れていることのほうが多く、表に姿を現すことは稀なのだ。もちろん今の彼女も、いつもの陽気さは見受けられない。
「これから話すことは、あまり他の人に聞かれたくないので……」
 斗樹は少し、顔色を曇らせた。
 本当なら、舟水相手に話すこともいけないことだとはわかっている。だからといって隠し通せるほど、自分が器用だとは斗樹自身も思ってはいないのだ。
(……ごめんなさい)
 心のなかで謝罪する。
 斗樹は瞼を伏せ、そして表情を固める。
「舟水さんの疑問」
 その声色は硬いままだ。
「一つ目。『何故俺が疎まれているのか』。理由は簡単です、俺が――『混血』だから」
 斗樹はあえて『ハーフ』ではなく、『混血』と読んだ。
「『オルブライト家』は表向き、同族経営による多国籍企業ですが、古くから続く魔術師の一族でもあります。特に純血主義の思想が強くて、俺のような混血や、『オルブライト家』の血を持たないものを激しく嫌うんです。だから、俺だけが疎まれているわけではないんですが……」
 不自然に言葉を途切らせると、斗樹は僅かに背後へと視線を向ける。
「『朱砂と契約した』ことが、『オルブライト家』と疎遠になった原因の一つでもあるんです」
 カルミヌス・ノクス。『オルブライト家』の人間なら、誰しもが朱砂をそう呼ぶ。偉大なる創設者が召喚したという至高の上級精霊。『オルブライト家』に絶大な力をもたらした存在。
「だから『オルブライト家』の人間はその力を欲した。手に入れるために様々な魔術実験を繰り返したそうです。でも結局は多くの精霊を犠牲にしても、誰ひとりとして朱砂を召喚できなかった……」
 そんななかで、十にも満たない、ましてや異国の血が混ざった幼子によって召喚され契約を交わしたという話は瞬く間に広がった。
「朱砂の存在以外にも、『オルブライト家』にはいくつか伝説があって、偉大なる創設者はサンディブロンド、そしてエメラルド・アイを持っていたとも言われています」
 斗樹の言葉に、舟水は引っ掛かりを感じる。この感覚はなんだろうか。どこかで聞いたような気もする。いくつかの思考を巡らせ、視線を斗樹へ向ける。
 対する斗樹は、ただ静かに舟水を見返していた。メガネのレンズの向こうに見える瞳は宝石のように澄み渡り、珍しい色をした金髪が柔らかい輝きを放っている。
「――そういうことか」
 独り言ちる舟水に、斗樹はそっと目を細めた。
 サンディブロンド。エメラルド・アイ。それらの条件に当てはまる人物が、目の前にいた。
 偶然か、それとも運命の悪戯なのか。坂上斗樹の容姿はあまりにも伝説に近すぎた。
「だから『オルブライト家』にとって俺の存在は、あってはいけない存在なんです」
「傲慢だな」
 舟水の率直な感想に、斗樹は曖昧な笑みを浮かべた。
 そういった傾向を持つ家が多いわけではないが、だからといって少ないわけでもない。斗樹自身も十分感じている印象で、否定はしなかった。
「――二つ目。『疎まれているのなら、どうしていったのか』」
 斗樹は第二の疑問へと話を切り替える。
「これは三つ目の疑問にも関わるんですけど……」
 どこか遠くを見つめるように、その翠玉色の瞳が細めいた。
「生きることに飽いていたんです。疲れてた、と言ってもいいかもしれません」
 はたから聞けば、よくある世迷い言だ。舟水は顔色を変えず、それでもその言葉を否定しなかった。
「辛かった。ちょっとした、些細な事ですら痛みでしかなくて。ずっとこれを一生抱えて生きていかなきゃいけない、それが重かった。だからといって、自分でこの生を終わりにする勇気もなかった」
 だから行ったのだ、あの家に。あの家は、「斗樹」という存在をずっと消したがっていたから。
「朱砂や親父が、ルーファを刺客だと教えなかったのもそれが理由です。俺を殺してくれると知れれば、きっと何の戸惑いもなくこの首をさしだしてただろうから」
 どんなことをしてでも、朱砂は斗樹を生かそうとするだろう。たとえそれが、斗樹の望まぬ結果をもたらすとしても。
「親父の場合は……伯父さんたちとの計画に、俺を利用することを思いついたっていうのもあるんだろうけど」
「……自分の子供ですら利用するのか」
「血の繋がった親子でも、利用できるものは利用する。それが『オルブライト家』の人間です。それに……俺も人のこと言えないし」
「…………『ルーファス』のことか」
 空気が揺らぐ。斗樹は視線を逸らし、少しだけ俯いた。
 『死』を渇望していた。殺してくれるなら誰でも良かった。だから一番身近にいた、ルーファスを利用しようとした。
 それなのに、誤算が生じた。
 殺してもらうために利用しようとしたのに。気づけば彼に、ルーファスに『恋』をしていた。彼の腕の中は暖かく、優しかった。その温もりが、心地よさが手放せなくて。いつしか『死ぬ』ことよりも、『生きる』ことを選んでいた。
 だから悲しかった。自分も利用しようとしていたくせに。彼が、本当に自分を殺すために近づいたと知って、悔しかった。
「身勝手だな」
 静かに告げられる言葉で、ズキリと心が痛む。だからといって反論はしない。身勝手なのは、紛れも無い事実なのだから。
「本当は憎みたくなんかなかった……あいつを愛したこの気持ちは本当で、でも憎まずにはいられなくて……っ」
 斗樹は唇を噛みしめる。
「――いえ、ただの言い訳ですね……」
 言い訳を積み重ねても、それは何の解決にもならない。ただ『逃げている』だけなのだ。
 少しだけ急く呼吸を整える。そして斗樹はめったに外すことのない手袋に手をかけた。とたん、朱砂が慌てて身じろぐ。
「大丈夫。多分……今ならいける……」
 斗樹は視線を向けないまま、それでも朱砂を宥めるように制止させた。
 手袋を外せば、顕になるのは包帯が巻かれたその手。留め具を外し、斗樹は包帯も解いた。左手の甲に刻まれているのは、痛々しい烙印。
 薄暗い闇の中で一度邂逅したそれが、白昼のもとにさらされた。
「それは?」
「『契約痕』といいます。朱砂と契約を交わした証です」
 家族にすらあまり見せたことのなかったものを、斗樹は何の躊躇もなく舟水に見せた。手の甲には幾何学的な紋様がしっかりと刻まれている。
 多くの『オルブライト家』の人間が、破滅してまで欲し続けた証。
「舟水さん、手を……お借りしてもいいですか?」
 僅かに訝しげな視線を寄越しながらも、舟水は右手を差し出す。その上に左手を重ねると、斗樹はゆっくりと瞼を閉ざした……



 ぞわりと、背筋が粟立つ。
 重ねられたその手から、喩えようのない『なにか』が入り込んできた。深淵にある水面に幾重もの波紋が広がり、『力』が強い反応を見せた。
(――っ)
 『力』に引きずられる! そう思った矢先、突然別の強い力によって引き上げられた。


『千秋っ!!』
 甲高い声に、舟水は我を取り戻す。傍らを見やれば、舟水の使鬼であるわたあめがいつの間にか立ち上がり、スーツの裾を引っ張っていた。
「わた……」
『ちあき? ……ちゃぁーきぃ……』
 自分の主の異変に気づいたわたあめは、舟水の意識を引き戻そうとしていたのだろう。スーツの裾を引っ張ったまま、エグエグと泣きっ面になっている。一先ず落ち着かせるために、舟水はわたあめの頭を撫でた。
「坂上、今のは……、――坂上?」
 今の『なにか』を尋ねようと舟水が振り返った先にあったのは、テーブルの上に突っ伏したまま動かない斗樹の姿だった。
 立ち上がろうと舟水が僅かに腰をあげたとき、くぐもった声が耳に届く。
「だい……じょうぶ……です……」
 正直なところ、大丈夫そうには見えない。自力では動けないのか、背後に待機していた朱砂に抱き起こされ、斗樹は背凭れに寄りかかった。
 顔色は真っ青で。額には脂汗が浮かび、肩で荒い呼吸を繰り返している。うっすらと開かれた瞼の隙間から覗く、翠玉色の瞳も疲労の色を滲ませていた。
 ――今のは一体なんだったんだ?(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)
 舟水は、未だしびれの残る右手を見る。流入は止まったとはいえ、身体の奥に沈殿する『なにか』に刺激を受けてか『力』が揺らめいている。じわじわと纏わりつくそれは、明らかに異質としかいいようがない。
 ふと。指先に何かが触れた。細くしなやかな指先。舟水が顔を上げれば、いつの間にか傍らに朱砂が立っており、重ねられていた指先は彼女のものだった。時間にしてほんの数秒足らずだったが、彼女が指先を離せば、先ほどまで纏わりついていた『なにか』が瞬く間に消え、水面は穏やかさを取り戻す。
 朱砂が舟水の裡に残っていた『なにか』を引き取ったのか、無言のまま直ぐに斗樹の傍へと舞い戻った。
 呼吸が落ち着き始め、朱砂から手渡されたコップの水を斗樹は呷った。喉が上下し、少しだけ口元から水滴が滴る。カラになったコップをテーブルの上に置き、斗樹は大きく息をはいた。
「坂上、今のは一体なんだ」
 舟水は落ち着きはらった声色で問いかける。その声に呼応するように、斗樹は面を上げた。
――その翠玉色の瞳(エメラルド・アイ)が、鮮やかに揺らめいた。
「『狂気』」
「ん?」
「『古の血』、『純血のケダモノ』とも呼ばれることがありますが、多くの『オルブライト家』の人間はこれを『狂気』と呼びます。これは、直系の中でもごく一部の者にだけしか引き継がれていないんです」
 それは、呪われた『オルブライト家』の血の象徴。
「といっても多くは微々たるもので、生活するうえではあまり影響を受けません。強いていえば、性格がアレな感じになるくらいですか」
 斗樹は力無く笑う。しかしすぐに、表情が消えた。
「――だけど、俺の場合は違うんです。今、舟水さんが触れたのは、俺が本来持っている『狂気』の何百分の一にも満たないんです。『オルブライト家』で最も強い『狂気』を持つと言われていた親父ですら、俺のに比べればほんの僅か……」
 斗樹はコクリと首をかしげ、冷たい笑みを浮かべる。
「全ての『狂気』にはたった一つだけ、共通する望み(ヽヽ)があるんです。舟水さんはわかりますか?」
 突然の質問に、舟水は眉を寄せる。
 望み? それも共通しているときた。しばらく考えたが、そもそも斗樹が言う『狂気』がどんなものか理解できていない。
「『狂気』の唯一の望み……、それは宿主の破滅です」
 多くの者は、その『狂気』の深さにかかわらず折り合いをつけてきた。いや、掌握できるほどの量しか持っていないと言い換えてもいい。
「だから俺は一度、壊れてるんです。母さんが亡くなった時に。半年、くらいかな……廃人同然でした」
 そっと目を伏せ、烙印が刻まれた左手で胸元を押さえる。
「今の俺は、その時に残された心の欠片を寄せ集めただけに過ぎないんです。ほとんどを『狂気』に持っていかれたままで……」
 ゆえに、斗樹の精神は常に不安定だった。自分の感情をうまくコントロール出来ず、ときには心傷ついたことも数えきれない。そうした傷が積み重なり、いつしか『死』という開放を求めるようになっていったのは、自然な流れかもしれない。
 結局、『死』を得ることはなかったけれど。





 二人の間に、無音の時間が流れる。遠くから街の喧騒が聞こえてくるが、今の二人の耳に入ってはこない。
「――それで。見つけたか?」
 沈黙を破ったのは舟水だった。斗樹はゆっくりと面を上げ、視線を交わす。
それ(ヽヽ)の意味をだ」
 舟水が向けた視線の先、テーブルの上に無造作に置かれたプレートネックレス。舟水のものであるそれを、斗樹はそっと指先でなぞる。冷たい、金属特有の硬さを感じる。
 そして、思いを馳せる。
 きっと舟水は、軍人であった過去を知られたくなかったはずだ。舟水の口から直接聞かされるまで微塵にも思わなかった。そんな素振りもみせなかった――異国の血をひいていることすら。
 斗樹は、指先でプレートネックレスをいじる。
「……舟水さんは怖くはなかったんですか……? その……誰かを殺さなければいけないと言われたとき」
 かつて愛した人がそうだったように。
 斗樹の言葉に舟水は目を細め、そっと閉じる。
「いいや。下された命令だからな」
 疑問を持つことなどない。疑問を抱けば飛べないのだ、あの(戦場)は。
 何でもない風に答える舟水に、斗樹は眉尻を下げた。
「やっぱり強いなぁ」
 自分は弱かったから。斗樹は、吐き捨てるように小さく呟いた。
 一呼吸置いて後、斗樹は面をあげる。その表情はどこか晴れやかだった。
「……舟水さんは不思議な人ですね。もう誰も愛せない、愛さないと決めていたのに。本気の恋なんてしないと思っていたのに。俺の心はぜんぶルーファのもので、ずっとそれだけを支えに生きていくんだと思ってた――あなたに会うまでは。
 衝撃でしたよ。あなたに出会って、何度も忘れようとした。忘れなきゃいけないのに、忘れらなくて。諦めなきゃいけないのに、諦めきれなくて。あなたは俺に色を与えてくれた。昏い世界に色を与えてくれたんです」
 朽ち果てた花に埋もれ。そして芽吹いた、小さな花の蕾。
 斗樹はそっとドッグタグを両手で包み込む。

 『ルーファ』
 愛しい人。愛しくて、憎くて。俺を裏切り、そして守ってくれた。
 弱い俺を、自分勝手な俺を愛してくれた。それに甘えていたのだ。
 だから。
 もう大丈夫。もう、惑わない。過去を、あの日々の幻影に縋るのは、終わりだから、
 ありがとう――さよなら、『ルーファ』

 二枚のうちの一枚、読めない文字が刻まれた方を掴み、光沢を放つ表面に触れるか触れないかのキスを贈る。
「これからのあなたの人生の中に、俺がいてもいいですか? だから教えてください。あなたの気持ちを」
 『返事』を、聞かせてください――




「やぁ、こんばんは」
「あんた…………ああ、こんばんは」
 姿なき声に声をかけられる。気づけば、舟水はあの夢のなかにいた。
 この声はルーファスだ。
「今度は何だ。前にも言ったが、どうなるかは坂上次第だ。俺にとやかく言われても、何の保証もできない」
「え? ……ああ、違う違う。君に感謝と……お別れを言いにたんだ」
 一瞬、ルーファスの言葉が理解できなかったのか、舟水は言葉を失う。
「感謝してるよ。あの人が、斗樹がようやく過去に向き合い、前を向いて進むことを始めた。そのきっかけを作ってくれたのはあんたのおかげだ。これでようやく俺も開放される」
「開放……?」
「あの人が俺に心囚われていたように、俺もまたあの人に囚われていたということさ。あの日、俺は死の国へと旅立つはずだった。だけどあの人の想い……未練や後悔が、俺の魂をこの世界に留めてしまった。斗樹は、気づいていなかったようだけど」
 そのことを知っていたのはたった一人――朱砂だけだ。
「……あの人は愛し方も、愛され方も知らなかった。一番の庇護者であるはずの母親を失い、父親もまた彼を置いていった。祖父母も、カルミヌス様も確かに彼を愛してはいたけれど、それは斗樹が欲した『愛』じゃなかった」
「なら、あんたは、坂上が欲しがっていた『愛』というやつを与えれたのか」
「……どうだろう」
 ルーファはどこか他人事のように呟く。
「あの人を愛したのは本当さ。斗樹が俺を愛したのもしかり。でも、もしかしたら愛し合っていた気になっていただけかもしれない。人の心というのは、たまにわからなくなる」
 訝しげな表情を浮かべる舟水に、ルーファスは苦笑を返す。どうやら、ここ(ヽヽ)では起きている時よりも感情が現れやすいようだ。
「たぶん……ヴァージル様も、カルミヌス様も、どう接すればいいのか迷っていたんだと思う。『オルブライト』の伝説。かつて仕えた創設者、偉大なる系譜の始まり。その姿を、斗樹に重ねてしまった。ふふ、『愛』を伝えるのがとても不器用な人たちだね」
 ふわりと空気が変わる。甘く、どこか懐かしさを感じさせる香りが周囲に漂い始める。
「さて。どうやら時間が来たようだ」
 優しい香りが鼻腔をくすぐれば、舟水の背筋がゾクリと粟立った。
 内に秘める『力』の水面に再び波紋が広がり始める。それに呼応するかのように、水面が重みを増す。絡みとるように纏わりついてきた『力』が呑み込もうとしている。
「――ダメだよ」
 冷水を浴びせられたかのような、冷たい声が舟水の頭に響いた。面を上げれば、はらはらと赤い花片が舞い、人影が目の前に立っていた。形はぼんやりとして不明瞭だが、誰かなのかはすぐにわかった。
「『人』として生まれたのなら、『人』として生き、『人』としてあれ。――こちら側に来るのは、それからでも遅くはないさ」
 赤い花弁が頬を撫でる。感情も何もかも引きずられかけていたことに気づき、舟水はゆっくりと『力』を抑えた。
 相変わらず目の前の人影は、形がおぼろげだ。それでも、影一つなかった状態を思えば、力を取り戻しつつあるのだろう。
「あちら側に渡ってしまえば、もうこちらに干渉することはできなくなる。だから、お別れだ」
「……坂上には、何も言わないのか」
「…………いいんだ。俺とあの人との関係は、六年前のあの日で終わってる。これ以上あの人を苦しませたくない」
「……そうか」
 甘い香りが一段と強くなった。
「ありがとう。そして、さようなら――『雷帝』の息子よ」
「さよならだな、花の精霊」
 精霊の優しい笑い声を聞きながら、舟水は甘い香りに包まれながら瞼を閉じた。

 そして、再び瞼を開けて目に飛び込んできたのは、見慣れた天井だった。どうやら無事に戻ってこれたようだ。
 上体を起こせば、一瞬甘い香りが鼻腔をくすぐったが、すぐに霧散する。室内はとうに昏く、ブラインドの隙間からは遠くの僅かなネオンが星のように瞬いていた。
 微かな電子音に、舟水は意識をそちらに向ける。プライベート用に使っている携帯が鳴っていた。発信者を確認し、通話ボタンを押す。
「舟水です」
『ぁ……、あの……坂上です。こんな遅くにすみません』
「そうだな。確かに時間も時間だな」
 舟水は視線を時計に転じる。日付は既にかわり、時刻は一時を過ぎていた。再び、電話の向こう側で「ごめんなさい」と弱々しい謝罪の言葉が聞こえてくる。
「どうした。急ぎの用事か」
 こんな遅い夜分にわざわざかけてくるのだ。余程の理由があるのか。一方の電話の主――斗樹はしどろもどろだ。それでも意を決したのか、微かに息を呑む音が聞こえる。
『あなたに……伝え忘れていたことが、あったので……』
「なんだ?」
『……舟水さん、俺、』





『好きです――愛してます』

サナギは羽化し、チョウと為す
(2013/12/28 修正)
(2013/11/05)