――これは夢だ。
手を伸ばす。それでも届かない。
目の前に広がるのは漆黒の闇。深く昏く。氷のように冷たい深淵。その中へと消えゆく背中。
いやだ。連れて行かないで、ひとりにしないで。
かえして。かえして。うばわないで。
世界が崩れる音がする。
穏やかな静けさに包まれていた世界に音が一つ、落とされた。
暖かい日当たりで微睡んでいた舟水は、うっすらと瞼を開けた。
再び音が鳴る。チャイム音だ。外出する予定もなく、自宅でのんびりと過ごしていた舟水は、身体を起こす。チャイム音は一定の間隔で鳴っている。
誰か来る予定があっただろうか。そんなことをぼんやりと思いながら、玄関の覗き穴からそっと外を伺う。
小さなガラスの世界に移りこんだのは、見覚えのある砂色かかった金髪。俯いているため顔を窺い知ることはできなかったが、見知った人影であることを確認すると玄関の鍵を開けた。
「……坂上」
開かれた扉の向こうにいたのは、やはり斗樹だ。
「どうした。用があってきたんだろう」
無言。終始俯いたまま、斗樹は何も答えない。そんな様子を暫く見下ろしていた舟水は、小さく息を吐く。
「ひとまず入れ。そこにつったっていられても、困る」
入るように促し、くるりと背を向ける。その瞬間、背後で息を飲む気配がした。違和感を感じた舟水は振り返ろうとし――
変な角度から重力がかかった。昔とった杵柄のおかげか、瞬時に身体の向きを正し、衝撃に耐えるように受け身をとる。
突然の事態に驚きはしたが、冷静なままだった舟水はこの状況を振り返った。
玄関先のホールに舟水は背中から倒れ、そのうえへ押さえるように斗樹が乗っかっている。正直なところ、こんなところで致す趣味は持ち合わせていない。
「坂上、どけ」
ふるふると。斗樹は頭を横に振る。いつもならきちんと整えられている髪型が崩れている。
やはり何かが違う。弱い姿を見せたことがないわけではないが、それともまた違う様子がひしひしと感じられる。
これは何だ? 何の感情だ?
ゆらりと腕が伸びてきて、その手が舟水の頬に添えられる。指先は冷たかった。
「…………ふなずさん」
微かに聞こえてきた声はとてもか細い。弱く、震えていた。
揺れた前髪から覗いた瞳は、涙に濡れていた。顔に色はなく、熱もない。感情すらなかった。ただ、ほろほろと涙だけが頬を伝っていた。
滴る涙が、舟水の頬をも濡らしていく。涙が熱く感じるのはただの錯覚だろうか。
舟水はその目を見る。視点が合わない。斗樹は舟水を見下ろしながら、どこか虚無を見つめている。
震える唇が何度も、何度も求めるように舟水の名を呼ぶ。それは迷い子が、誰かを探すような声色。不安と恐れ。
「ふなずさん…………どこ……」
「ここにいる」
涙に濡れる頬を撫でる。止まらない涙が、舟水の指を伝っていく。暫しの静寂が漂い。斗樹はゆっくりと瞼を閉じた。
「落ち着いたか?」
舟水はなんとかリビングにまで斗樹を引き込んだ。わたあめが、尋常な様子ではない彼を心配げに見つめ、時折鼻面を押し付ける。わたあめなりの励まし方なのだろう。
こくりと、斗樹は首を縦に振る。確かに先程よりも視線はしっかりしていた。
「一体どうした」
「夢を、見たんです――
その言葉の一つ一つが沈痛に満ちており、舟水は口を噤んだ。
「昏かった……。寒くて冷たくて、どんなに手を伸ばしても届かなくて。呼んでも、叫んでも振り返ってくれなくて……、俺……っ」
再び、目尻に涙が滲み始めている。
「怖くなって、そのことを朱砂に話したら……そしたら朱砂が変な顔をして……それで、いてもたってもいられなくて」
朝早くから押しかけてきたというわけか。舟水は改めて斗樹の姿を見返す。起き抜けのままなのか、髪は乱れている。服もとりあえず手にとったものを着たといった具合だ。それだけで、どれほど動揺していたのか窺い知れた。
「ひどい顔だな。ひとまず洗って来い」
そう言われて斗樹は舟水を見つめ、頷く。ゆるゆると立ち上がり、おぼつかない足取りで洗面所へと向かう。舟水から目配せを受けたわたあめは斗樹の後を追った。
一人と一頭の姿が見えなくなってから、舟水は視線をずらした。
「どういうことか、説明してもらおうか」
舟水が向けた視線の先に、斗樹の使鬼である朱砂が座っていた。いつもの陽気さはない。
斗樹が言った言葉通りなら、この使鬼は『なにか』に気づいている。舟水の視線が自ずと尖さを増した。
「あんたは……何を知っている……?」
朱砂は暫く無言だった。
――なにも
ゆっくりと、音を伴わない『声』が聞こえ始める。朱砂は唇だけを動かしていた。
――なにも。あなたの中にある『それ』がなんなのか、自分にはわからない。ただ、どうしようもない、どうすることもできないものだということだけはわかる。
――それは、斗樹もおなじだけれど。
――どうしようもない、どうすることもできない『なにか』。
「『坂上も同じ』、とはどういう意味だ」
――そのままの意味。斗樹が何を抱えているのか……それは自分の口からは言えない。それは、斗樹が決めることだから。
それっきり、朱砂は口を噤む。
聞きたければ、知りたければ斗樹自身から聞けと遠回しにいっているようなものだ。仄めかすだけ仄めかして、その内容を話そうとはしない。
珍しく追求しようかと思った時、斗樹が戻ってきた。
先ほどの状態よりはこざっぱりしているが、それでも目尻がうっすらと赤く腫れている。だいぶ泣いていた証拠だ。
頼りない足取りはそのままで、斗樹は舟水の前に立つ。
「……舟水さん……は、どこにも、……いかないですよね?」
舟水はその問に答えを返さなかった。斗樹自身も答えなど求めていないのかその場に蹲り、舟水の膝へ頭を乗っける。泣き疲れたのか、すぐさま瞼は閉ざされた。
聞こえてくるのは、静かな寝息。
舟水は斗樹を見下ろしながら息を吐く。ふと、視線を転ずれば既に朱砂の姿は消えていた。引き取れ、と言う前に先手をとられたようだ。しかも膝を枕代わりに寝られてはさすがの舟水も身動きがとれない。
気を利かせたわたあめが、ブランケットを引っ張ってきた。日が昇り、室内に射しこむ陽光が心地よい。その暖かさに誘われて、舟水は瞼を閉じた。
(2013/09/24)
Thanks : toad