日が西へ傾き、東の空にうっすらと夕闇が迫っていた。



 舟水は小振りな紙袋を手に、沿道を黙々と歩く。ふわふわした羊毛を纏う羊が一頭、テクテクと舟水の後を追っていた。
 普通に考えれば、街中に羊というのはとても奇妙な光景だ。しかし、すれ違う誰しもが羊の存在に目も呉れない。そこにいることすら気づいていないともいえる。
 それもそのはず、その羊は『ただ』の羊ではない。名を「わたあめ」という。先を歩く舟水と契約した使鬼と呼ばれる存在であり、人の目に触れないよう姿を隠しているのだ。
 羊は目に映る様々なものが目新しいのか、ふらりふらりと視線を迷わせる。しかし舟水は歩きの速度を緩めもしないので、置いていかれないように慌ててついていく。
 舟水は時折、小さなメモ用紙を確認しては道をひたすら歩く。駅からはやや遠く、奥まったところにそれはあった。
 三階建てのこぢんまりとした洋風の建物。その全景を目にしたとき、舟水は内心で首を傾げた。一階部分は喫茶店になっているのだが、店内は真っ暗だ。扉には臨時休業の札。
「お店、閉まってるの?」
 わたあめが舟水へ問いかける。
「そのようだな」
 この店舗件住宅に住むとある人物を訪ねたかったのだが、さて、どうしようかと思案する。ちらりと頭上を見上げたが、上の階にも明かりは見えない。完全に留守だ。
「電話は?」
「…………あ」
 至極当然なわたあめの言葉に、舟水は表情を固めた。どうにも、『電話』という連絡手段を忘れがちになるようだ。以前にも、同じようなことがあったなと振り返る。向こうからの電話のほうが多いのだ。
 ポケットから携帯を取り出し、アドレス帳に登録してある電話番号を探し当て、いざかけようかと思った時。
 遠くから、唸るエンジンが響き始める。音は徐々に大きくなり、視界に見覚えのあるバイクが映り込んた。バイクはそのまま立ち尽くす舟水の前で停止する。
「舟水さん」
 フルフェイスのヘルメットを脱ぎ、外していたメガネをかけ直す青年は、いままさに電話をかけようとしていた相手――坂上斗樹だった。
「こんばんは、坂上さん」
「わたあめさんもこんばんは」
 ぺこりとわたあめはお辞儀する。それに対して、斗樹も同じように夕暮れの挨拶を返した。
「なにかあったんですか?」
「会社の慰安旅行の土産を。上野さんに持たされた」
 物珍しそうに問う斗樹に対して、がさりと舟水は手にしていた紙袋を差し出した。
「いいんですか、もらっても? ありがとうございます、連絡くれたら俺取りに行ったのに」
 その肝心の『連絡』を忘れていたのだから、どうしようもない。斗樹は差し出された紙袋を受け取ると、暫くそれを眺めていた。
 奇妙な沈黙が漂う。
「……あ、あの」
 斗樹がややはにかみながら、声をかける。
「立ち話もなんだから……家に寄って行きませんか?」



「好きに座っててください。コーヒーでいいですよね」
 少し嬉しそうな声色で、斗樹はリビングに接するキッチンへ直行する。食器具が楽しい音を奏でていた。
 舟水は暫くリビングを眺めてから、床に直接腰を下ろした。調度品はこじんまりとしていて、綺麗に整頓されている。窓側に置かれたキャビネットの上には、とりどりの写真が飾られている。
 わたあめも他人の家が珍しいのか、視線をあちこちへと向けている。よく言い聞かせているから、勝手にウロウロしないだけマシだろう。
「なにか楽しいものでも見つけた、わたあめさん?」
 クスクスと斗樹は笑う。トレイにのせられたマグカップからは、鼻腔を擽る珈琲豆の匂いが漂っている。影から抜け出た朱砂が、わたあめの柔らかい羊毛をわしゃわしゃと撫でていた。
「はい、どうぞ」
 マグカップを舟水の前に差し出せば、ゆらゆらと白い湯気が立ち上っていた。
「……家族の人は?」
 確か、祖父母と暮らしているという話は聞いた。
「じいちゃんとばあちゃんは町内会の催しで、二泊三日の慰安旅行中です。親父はもう何年も海外で仕事だし、母さん、は……」
 斗樹は不自然に言葉を切らす。その目はどこか遠くに思いを馳せているようにも見えた。
「母さんはいません。俺が小さい時に亡くなったから」
 舟水は口黙ると、気にしないでと斗樹は朗らかに笑う。
「正直言うと俺もあまり覚えていないんです。その頃の記憶はほとんど飛んでたし。ただ……優しい温かい手をしていたことは覚えています」
 キャビネットの上に飾られた数々の写真。その中の一枚。艶やかな黒髪、優しい面影の女性。おそらくそれが母親なのだろう、その写真をじっと斗樹は見つめていた。
「舟水さんのご両親は?」
 自然な流れで、斗樹は舟水へ問いかける。その表情は純粋な興味だ。
「俺のところはもう随分前に離婚してる」
「……あ」
 とたん、斗樹は顔色を曇らせる。離婚家族が珍しくない世の中になったとはいえ、世間一般的にはあまりいい気分のしない話題だ。そう察したのか、どこか気まずそうに視線を迷わせる。
「ごめんなさい……」
「なぜ謝る? お前には関係しないだろ」
「それはそうなんですけど……そういう混みいった話ってあまりしたがらないのが普通で……」
 苦笑しながら斗樹は言葉を繋ぐ。舟水の態度があまりにもあっさりで、それが逆に新鮮すぎたのだ。
「……舟水さんは強いですね」
 奇妙な沈黙が再び訪れる。
 遠くからは街の喧騒、リビングにはコーヒーを啜る音が響く。刻々と刻む時計の針だけが時の流れを告げている。
 日は陰り、窓の外は夕闇に沈んでいた。
 コトン、と。空になったマグカップがテーブルの上に置かれる。そろりと伸びてきた指先が、舟水の指をなぞる。
「舟水さん……その……、……したいです」
 斗樹の表情は色めいていた。指を絡め、空いた手を舟水の頬に添える。グッと顔を近づけ、唇を重ねあった。溢れる吐息は熱く、その瞳は熱を帯びている。舌を絡め合えば、コーヒーの苦味が口の中に広がった。



 斗樹は舟水を自室へと招き入れる。少しばかり乱雑に置かれた書籍や紙が各所に積まれていたが、概ね綺麗に整えられていた。舟水の部屋に比べれば、物が溢れている。斗樹に言わせれば、舟水の部屋は物が少なすぎるのだけれど。
 壁を背に、舟水はベッドの上に膝を立てて座った。それに向かい合うように、斗樹が嬉しそうな表情を浮かべてにじり寄ってくる。
 最初は啄むように触れてきた唇が、次第に深く重ねてくる。指がネクタイの結び目にかかり、シュルリといとも簡単に解かれた。そのまま腕を差し込んでジャケットを脱がし、ワイシャツのボタンを外し始める。
 徐々に顕になる肌を、斗樹は目を細めて見つめていた……

 溢れるのは、掠れた吐息。
 シャツは大きく開け、スラックスは下着ごと脱がされて足先に引っかかっている。下腹部に生じる違和感に、舟水は背筋がぞわぞわした。
 裡を満たすのは、斗樹の熱。突き上げるでもなく、揺さぶるでもなく、舟水のなかで燻っている。
 律動すれば気が紛れるだろうに。はっきりと熱の形を感じ取れるほどに馴染んでいた。
 一方の斗樹は舟水の背に腕を回し、その肌を弄っている。指先が肌の凹凸をなぞるたびに、ピリピリとゆるい疼きが走った。
「……ふなずさん……」
 首筋に顔を埋め、耳朶を擽る囁きは熱を孕んでいる。
 ぷっくりと膨らんだ胸元の痼を舌先で突付き、歯を立てて甘咬みをする。それが気持ちよくて、舟水は奥歯を食い締めて声を押し殺した。
 柔らかく、熱い唇が何度も肌を這う。肩口をキツく吸われたと思えば、チリッと小さな痛みが走った。視線を向ければ、肩に散る紅く色づいた小さな点――キスの痕。その紅い痕を、斗樹が愛おしげに撫でている。
 そこなら確かに人の目には触れにくいだろう。
 輝く宝石のような翠玉色の瞳が、舟水の目を捉える。そのまま近づき、今度は強請(ねだ)るように唇を奪われた。舌先が歯列をなぞり、舌を絡めてくる。吐息を貪ろうとする勢いで、噛み付いてくる。
 荒々しい接吻。じわじわと侵食してくる疼き。身体はより一層、熱を求めている。
「……っ」
 斗樹が僅かに腰を浮かせる。その瞬間、裡に埋まっていた熱が動く。急に与えられた律動に、舟水はシーツを握りしめていた。
 固く閉ざされた瞼の上に、何かが優しく触れてくる。うっすらと瞼を開けば、斗樹の唇が触れていた。
「舟水さん…………すき」
――それでもまだ、『愛している』と言ってこない
 壁に手をつくと、斗樹は腰を浮かせ中腰になる。繋がり合っていた場所が動き、舟水は体勢を崩した。背後を壁に支えられていたおかげで無様な姿を晒すことはなかったが、角度が変わった熱が裡を抉る。ゆっくりと揺さぶられ、突き上げてくる律動に舟水は安堵した。
 求めていた熱が、ようやく与えられたのだ。
 シーツを握りしめたまま、瞼を閉ざす。持ち上がった両足がゆらゆらと揺れた。
 二人分の重みを受けて、スプリングが金切り声をあげる。裡を埋める熱が内壁を擦り、疼かせる。花蕊にも熱が集まってきた。
「…………」
 何を思ったのか。舟水は斗樹の腹をグッと押し返す。
「ふなず、さん……?」
「……抜け、坂上」
 突然の行動に、斗樹は驚きを顕にする。
 何と言った? 「抜け」? この状況で? 熱はもう、あとには引けない状態なのに?
「なん、で」
「……汚すから」
 斗樹は目を見張る。そして気づく。舟水はいい。身に纏うのは開け、乱れたワイシャツ一枚。対する斗樹は、多少は着崩れていたが、前を寛げただけで上下とも着衣したままだ。
 そのことを言っているのだと理解すれば、斗樹は口元を弛めた。
「気にしないでください。洗えば済むことですし。それよりも俺としては……、舟水さんにもっと感じて欲しいです」
 頬に口付けし、斗樹は舟水の花蕊に指を絡める。トクトクと脈打っていた。
 もっと感じて欲しい。もっと淫れて欲しい。
 睦言のように、何度もその名前を呼ぶ。後ろだけじゃなく前からも律動を与えれば、あとはもう互いに溺れ合った。





 静かに降り落ちる生ぬるい水滴を浴びながら、斗樹はぼんやりと浴室に立つ。その表情はどこかふわふわとしていた。
 こつりと頭を浴室内の全身鏡に当てる。
 そして、数分前までの出来事を反芻した。
 舟水は帰ると言った。明日も仕事があるというのだから仕方がない。そこで駄々を捏ねるほど斗樹も子供ではない。
 ああ、だからゴムを使えと言ったのか。
 正直な所、既に身体は気だるかったが、斗樹は舟水を見送るために玄関まで付き添った。
 結局ネクタイはもとに戻さず、シャツの胸元も幾分か開いたまま。晒される項に吸い付きたい衝動にかられたが、斗樹はなんとか留まった。見える所に痕をつけて、困らせたくもなかった。
 舟水が玄関の戸に手をかけて、なにを思ったのか斗樹の方を振り返る。
 忘れ物でもしたのだろうかと小首を傾げた斗樹の首根っこを掴むやいなや、強く引っ張られる。心地よい疲労感から、ぼんやりとしていた斗樹は反応が遅れた。
 そして今度は、斗樹が唇を奪われた。触れるだけの優しいキス。すぐさま離れ、その唇が「おやすみ」と言葉を紬ぐ。
 斗樹もまたオウム返しに言葉を紬ぐ。きっと、恥ずかしいほどに声は震えていただろう。舟水の背が戸の向こう側に消え、階段を降る音が遠ざかるのを聞き届けてから、斗樹はその場にへたり込んだ。
――あれは、不意打ち過ぎる
 一連の過程を浴室で再び思い出した斗樹は、顔を赤らめた。ようやく引いた熱が、また脈動を始める。
「……舟水さん……」
 愛しい人を想いながら、自分で慰める。経験がないわけではないが、それでも自分の意志ですることはあまりなかった。だからこそ、より一層身体が疼く。
 鼻にかかったような甘ったるい声は、水音へと吸い込まれた。



 心身ともにごっそりと気力を消費した斗樹は、ベッドの上に倒れこむ。もう今日は寝てしまおう。体力のなさが身にしみる。
「……」
 僅かによれたシーツ。少し前まで、あの人とこのベッドの上で抱き合っていた。
 シーツに頬を寄せ、胸いっぱいに息を吸い込む。少しでも、愛しい人を感じるために。
「……舟水さん…………すき」

 好き。好き。あなたのことが好きです。
 まだ言葉では伝えられないけれど。
 あなたを――『愛してる』

(2013/09/16)
Thanks : 4m.a