室内灯は落とされ、窓から差し込む淡い月明かりだけがうっすらと照らす闇の中。
 微かに聞こえるのは、掠れた吐息と軋むスプリングの音。





 頬を涙で濡らし、知らぬ名前をうわ言のように呼んでいた『あの日』。
 それは理由の聞けない――未だ踏み込めない領域。






 ブラインドから溢れる月明かりがうっすらと青白く染める室内。そんな中で舟水は片肘をついて己の傍らを見下ろしていた。
 身を丸めて眠る一人の青年。砂色めいた金髪が、月明かりを受けて白く輝いていた。僅かに開いた口元からは静かな吐息が聞こえくる。
 青年と街中で会うことはあっても、泊まっていくことは多くはない。青年にもいろいろ『予定』があるのか、たまたま休みが重なったときだけこうして部屋を訪れる。
 といっても、二人の関係は微妙な状態だ。
 舟水は青年からの告白を受けたが、その返事はまだ返していない。そもそも、青年のほうが受け取ろうとしないからだ。
 一方的な告白。返事を受け取らない、言い訳じみた理由。肌を重ね合うようになっても、その姿勢はかわらない。
「いつまで、お前は待たせるつもりだ?」
 どこか呆れたような声色。それでも冷淡さは感じられない。
 西洋人の血が混ざっているためか、日本人離れした青年の容姿は目を惹きつける。普段ならしっかり決まっている髪型も、今は崩れていた。
 ふと、左手に目がいく。しっかりと巻かれていた包帯が解けかかっていた。青年が手袋を外すことはとても稀で、この包帯にいたっては解いたところを見たことがない。
(……火傷?)
 乱れた包帯の隙間からのぞくのは、朱く色づいた甲の痕。紋様のようにも見える。
「…………ん」
 青年が身動いだ。むず痒そうに肩をすぼめ、眉を寄せる。何度か小刻みに頭を揺らし、ゆっくりと瞼を開いた。
 青白い世界に映える、翠玉色の瞳(エメラルド・アイ)。寝ぼけているのか、焦点があっていない。ゆるりと腕が持ち上がり、包帯は解けて左手の甲が顕になった。
 不思議な紋様の焼印。
 包帯はこの痕を隠すためだったのだろう。そのまま左手が舟水の首の後へと回される。再び瞼を閉じ、縋るように頬を寄せてきた。
「――ルーファ」
 舟水は動きを止めた。
 耳に届いたのは、あの『知らない名前』。寝ぼけているのか、青年は気持よさそうな顔でまた船を漕ぎ始めた。
 舟水は少し、むっとする。感情を揺り動かされる。まさか己のベッドの中で同衾している相手に、違う名前を出されるとは思ってもみなかったのだ。
 それと同時に、むっとした自分に驚いた。強く感情が動くことなど、珍しい。
「……坂上」
 そっと耳元で青年の名を囁く。声が届いたのか、再び肩を竦めてむずがった。
「ぅん……、……ふなず……さん?」
 眠気眼をこすりながらも、青年は起きだす。今度は眼の焦点もしっかりとあっている。
「どうしました……?」
「坂上、お前今なんて言ったか覚えてるか?」
「……、『舟水さん』」
「その前」
「?」
 どうやら本気で覚えていないらしい。青年は意味がわからないと首を傾げている。
 舟水は嘆息する。先ほどまでの激情も薄れてしまっている。もっとも、長続きするようにはできていないのだが。
「いやいい、起こして悪かった」
 舟水は思考を打ち切り、まるで何事もなかったかのように背を向け横になる。背後から、青年の困惑している気配が感じ取れた。
 無理もない。急に起こされて、意味のわからないことを尋ねられたとおもえば、突然何でもなかったと言われて混乱しないものなどいない。
 だからといって、その先に自ら踏み込むこともできないのは舟水自身が一番わかっていた。
 両者とも暫く無言となり、静かな時間が流れる。
「…………舟水さんは、何も訊いてこないんですね……」
 微かな声で、そう言われたのだけは気づいた。





 横になり、背を向ける男を斗樹はじっと見つめていた。
 付き合いを重ねることに、少しずつわかってきたことがある。気怠そうにしていて実は機敏だとか。薄情そうに見えて、案外お人好しなところとか。
 閨を共にするようになってからは、より些細な表情の変化も見つけれるようになった。
 だからこそ気づいてしまった。
 きっとこの人は、なにも『訊いてこない』ことに。踏み込んで来てはくれないことに。
(俺……あなたに伝えてないことが)
 いっぱいありすぎる。今までの人生、『(オルブライト)』のこと、「狂気」のこと、そして――『ルーファ』のこと。
 嘘をつくつもりはない。だからといって、全てを話したわけでもない。言わなければと思いながらも言い出せず、だらだらと時間だけが過ぎてしまった。
 今ですら、こうして何もいえないままなのだ。
 男が小さく嘆息する。その音に、斗樹はビクリと肩を震わせた。
「言いたいことがあるなら、ちゃんと言え」
 思わぬ言葉に目を瞬かせる。その言葉が、斗樹の背中をそっと押した。
「…………」
 斗樹は男の腕に、自分の額を押し当てる。男が身動ぎ、後ろを振り向こうとするが。
「『ルーファス』」
 ……ピタリと、男の動きが止また。
 斗樹は苦笑する。一度、音としてだしてしまえば不思議と気が楽になった。
「『彼』は……俺が初めて好きになった人でした」
 それは、記憶の奥底に仕舞いこんだ想い。
「本気だったんです。本気で、俺は『彼』を好きで――愛してた。初恋、だったんです。
 何もかもが新鮮だった。初めてすぎて何も知らなかった俺に、『彼』はいろんなことを教えてくれた。与えてくれたんです。『幸せ』も、キモチイイコトも全部」
 確かにあの日々は幸せだった。愛し、愛される喜び。体を繋ぎ合う気持よさ。心と体、あらゆる初めてを捧げた『彼』。
 ――悲劇で終わりの幕が降ろされるなど、露ほどにも疑わなかった。
「でも、もう逢えないんです、もう二度と……」
「……喧嘩別れでもしたのか」
 静かな水面のような男の声色が、耳朶に触れる。堰を切ったかのように、感情が高ぶった。

 そうであれば、こんなにも苦しむことなどなかったのに……

「――っ、違うんです。もう……もう逢うことすらできないんですっ! あいつは」

 なぜなら

「あいつは……俺が……っ、俺が、消して(ヽヽヽ)、しまったんです……!」





 『彼』の正体は、花の精霊でした
 ある事故で重傷を負ってたところを助けられたらしくて
 ……俺はそんなこと、知らなかった
 『彼』が精霊だということすら気づかないで、好きになってたんです
 タバコもお酒も、セックスの仕方だって『彼』が教えてくれた
 あの日々の俺にとって、『彼』は全てだった……

 俺の家、ちょっと複雑で……父方の家からは疎まれてるんです俺
 ああ、心配しないでください、良くしてくれる人もいたから
 俺が半分異国(日本人)の血を引いているのが気に食わないらしくて
 だから暫く疎遠だったんです
 そんなときです、手紙が届いたのは
 どこからだと思います? 父方の家だったんですよ、しかも親父の知らないうちに
 別に断る理由もなかったし、結構長く疎遠だったから軽い気持ちで受けたんです
 英国に渡って……そこで『彼』に会いました、俺の世話役として
 でも『彼』が世話役として付けられたのは、別の理由があったからなんです
 『彼』が俺に近づいたのは、俺を……殺すためだったんです……
 俺だけが馬鹿だった
 俺だけが……何も知らなかった
 朱砂も、親父も気づいていたのに、俺だけが気付かなかった
 『彼』の口から、直接聞かされた時は、わけがわからなかった
 何も考えられなかった
 苦しくて、辛くて、悲しくて、悔して
 俺の気持ち全部否定された気がして
 ……だからゆるせなかった
 俺は、本気で好きで、愛してたのに
 あいつは愛してくれてなかったのかと
 それが許せなかった!
 だから、俺は、あいつを――

 …………なのに
 あいつが俺を裏切ったのが
 本当は俺を守るためだと気づいた時にはもう……

 終わってたんです、なにもかも……




 静寂な時間が流れる。
 過去の記憶、今もなお蝕む悲しい記憶。斗樹の心に深い傷を残した思い出。
 それをずっと抱えて、孤独に生きていくのだと思っていた。
「今も……そいつのことが好きなのか」
 俯いていた面を上げれば、黒い瞳がこちらを見返していた。真摯なまで一点を見つめるその瞳。
「ええ、好きです。それと同じくらい、憎んでもいます」
 斗樹は笑う。それは、確かな『今』の自分の気持ち。

 ずるい人。何もかもを押し付けて、ただ一人自由になった人。残された者の気持ちなど考えもしないで。
 もういない人に心囚われたまま。思い出も、この想いすら捨てることができなくて。愛憎入り交じる感情だけが根深く締め付ける。

「でも、舟水さんが好きだというこの気持ちも嘘じゃありません。それは……信じてください」
 男の体を跨ぐように身を乗り出し、斗樹は顔を近づける。
 覗きこんだ男の顔は、静かな水面を思わせるように凪いでいた。
「…………舟水さん……」
 『愛している』と言えない弱さ。『さようなら』もできない未練。
 男の大きな手がゆったりと頬を撫でてくる。そのさり気ない優しさが嬉しくて、切なくて。
 斗樹はその手に、自分の左手をそっと重ね返した。



「……んっ……ちゅっ……はむっ」
 昏い室内に木霊する微かな音。重なりあうのは二つの影。
 男の秘所に顔を埋め、斗樹は熱に触れる。赤く濡れた舌を這わせれば、手の中で力強く脈打った。先端を軽く咥え、チラリと男の様子を伺う。
 相変わらず男は、顔を腕で覆い隠していた。
 筋肉が程よく引き締まった男の体は熱で火照り、しっとりと汗ばんでいる。
――もっと淫れるのを見てみたい
 自然と吐息にも熱が篭る。斗樹は上体を起こし、男の足を大きく開かせた。
「さっきしたばかりだから……まだいけます……よね」
 そっと窄まりを撫でれば、ぴくりと男の内股が震えた。試しに指を一本挿し入れてやれば、ナカは柔らかく滑っている。
 急く気持ちをなだめ、努めて落ちついて男の後孔に押し当てた。胸は高鳴り、息も上がる。ゆっくり、ゆっくりと斗樹は男のナカへと自分の熱を埋めていく。
 その刹那、男の喉が啼いた。
「……っ」
「舟水、さんっ」
 ナカは蕩けそうなほど熱く、程よい締め付け感が心地よかった。交わりが深くなるにつれて、ぬちゃりと水音が立ち始める。
 もっと深く、その全てを熱で埋め尽くしたい。
 男の頬にキスを寄せ、ちろりとその唇に舌を這わせる。腕を退いた男の表情はやはり落ち着き払っている。
 それでも斗樹は微笑んだ。
 うっすらと開かれた唇から溢れる吐息は熱く、黒い瞳は熱を篭もらせてる。男の胸元に頬を擦り寄せれば、トクトクと鼓動が力強く脈打ち、胸を弾ませている。
 その全てが愛おしくて仕方がないとばかりに、斗樹は男の体を強く抱きしめた。身を乗り出し唇を重ね、吐息を絡ませる。男の膝裏に手を差し込めば、思いの丈をのせて突き上げた。
 二人分の重みと律動を受けて、ベッドが無粋な悲鳴をあげる。
 肌を重ね、四肢を絡ませ合いながら深く繋がり合う。軋むスプリングの音と荒くなる嬌声に煽られて、ますます恋慕と情欲の熱は膨れ上がった。

 熱に、欲に、情に溺れあう。

「…………坂上……っ」
 背中へと回り、抱きしめてくるその腕の温もりが、斗樹の心に強く染み渡った。





 室内灯は落ち、静寂だけが支配する闇の中。微かに漂う熱と性の余韻。

 舟水は昏昏と眠る青年と抱き合ったまま、ベッドの上に横たわっている。
 激しく交わりあい、ありったけの思いを舟水のナカに開放すると、青年は完全に意識を手放した。髪は汗ばみ、しっとりとしている。
 顔には疲労の色が伺えたが、表情はどこか幸せそうに見えた。
 うつらうつらと意識が遠のきかけた時、微かな物音が届く。視線だけを向ければ、僅かに開かれた扉の隙間から、二つの影がこちらを覗いていた。
 おずおずと顔を覗かせ、全身で謝罪のオーラを発している羊は舟水の使鬼で、その頭上には目元から上が包帯で覆われた女性――青年の使鬼がいた。
 何か用があるのかと伺っていれば、綺麗な弧を描いた口元に女性が指を添える。そのまま掌をひらひらと振ると、舟水の使鬼とともに引っ込み、扉は閉ざされた。
(……他言無用、か(Mamma är ordet.)
 青年は『過去』を秘めたまま、一生一人で抱えていくつもりだったのだろう。それを打ち明けたということは、知ることの権利、そして踏み込むことを良しとする意志の現れなのかもしれない。そう結論づけた。
 もちろん、舟水はそれを他人に話すつもりはさらさらない。それでも青年の使鬼は、念には念をと思い顔をのぞかせたのだろう。相変わらず彼女は青年に対してとても過保護だ。
 舟水は枕に頭を沈める。瞼を閉じれば、すぐに深く昏い眠りへと誘われた。



 青白く輝く月は、天高く上り、孤高の輝きを放っている。

(2013/09/04)
Thanks : toad