その場所を見つけたのは、たまたまだった。

 今朝から機嫌がすこぶる悪い。さすがにその表情のままではじいちゃんばあちゃんにいらぬ心配をかけてしまうから平常を装ったが、それでも限界は早かった。
 限界を超える前にと早々に家を出て、何処か落ち着ける場所を求めて歩いた。
 そうしてたどり着いたのは、とある教会。その裏手は人目を避けるのに格好の場所だった。
 レンガの壁に背を預け、地に腰を落ち着ける。ショルダーバックから煙草を取り出し、火を灯せば白い煙が揺蕩う。
 少しだけ、落ち着いた。それでも感情は燻ったまま。その激情のままに息を吸い込んだから、久しぶりに咽た。
「――っ、ゲホッゲホッ……っ」
 一旦煙草を離し、新鮮な空気を吸い込む。煙草を吸うようになってもう何年もなるが、やはり慣れない。それでも止められないのは、何かに縋らなければ『俺』という自我を保てないから。
 『狂気』。まだ子供だった俺の心を粉々に打ち砕いたというソレ。二度の眠りのすえ、俺はその本質を受け入れた。もちろん『受け入れた』だけで、『支配』できたわけじゃあない。
 事実、俺の中にある『狂気』は半分、それも表層部分だけで、真髄は朱砂が預かったままだ。それでもこうして、時折俺の感情を揺さぶっては貪り尽くそうと狙ってくる。
 朱砂曰く。『狂気』に完全に押し負ければ、俺は『廃人』になるらしい。
――まぁあ、一時期はそうなってもいいかなって思ったこともあったけど
 そんなことを何気なく零したら、朱砂に怒られた。あれは痛かった。拳骨一発。それでも手加減はしていた。手加減なしだったら、それこそ今ここに俺はいないだろう。
 ずくりと、頭が軋む。
「……っ」
 相変わらず『狂気』は容赦がない。
 わかってる。歓喜しているのだ。俺が、執着を持ち始めたことに。でも。
(渡さない……)
 再び、煙草を咥える。タバコ箱の紅い色が鮮やかに見えた。









 確か、「わたあめ」と呼ばれていた羊が手渡してきたのは、一枚のチラシだった。

「…………」
 俺はぼーとチラシを見る。見ているだけで、中身は一切頭に入ってこない。
 どうしてか、人目のない場所を見つけて、行儀が悪いとは思いつつも煙草をふかしながら本を読んでいた。
 そうして手渡されたチラシなのだが。
 ツンツン、と膝を突かれる。
 視線をずらせば、眼下で上半身だけを影から露出させ、肘をついてこちらを見上げている朱砂の姿。いつもなら、中途半端に体を出すなと怒るところだが、どうにも怒る気力がわかない。
 朱砂は首を傾げて、手元のスケッチブックに拙い手つきで文字を書く。
『いかないの?』
 行く? どこへ?
 今度は俺が首を傾げれば、その瞬間、朱砂の気配が一気に剣呑さを帯びる。
 ずるりと上体をさらに浮かせ、その両手が俺の頬を包み込むと。

 ゴンっ

 盛大な音が鳴った、と思う。一拍おいて。
「……い、……ってぇぇ」
 時間差で襲ってきた鈍い痛みに、思わず涙目になる。ズキズキと痛む額を抑えて、件の朱砂を見返せば、どうだ!と言わんばかりに胸を張っている。
 だからなんで頭突き……
 するりと朱砂の手が頬を撫でる。ふにふにと頬を柔らかくつねられて、ようやく気づいた。
 道理で感情が動かないわけだ。
 『狂気』が渋々と沈む感覚がする。知らずうちに『狂気』が表面化していたようだ。
 そういえば、舟水さんの気配をうっすらと感じていたのだが、よかった、傷つけなくて。
 この『狂気』は厄介だ。宿主が絶望へと堕ちる瞬間を待っている、そのためなら平気で宿主をも傷つける。肉体的な意味ではなくて、精神的な意味で。
(もったいなかったな……)
 それでも、せっかく舟水さんに会えたのだ。相手は会社員で、俺は学生。生活時間も異なる以上、時間の都合がつく機会は多くはない。だから、こうして偶然とはいえ出会えるというのは貴重なわけだけど。
「…………舟水さん」
 傷つけたくない、そう思えた初めての人。
 今までは自分が傷つきたくないだけだった。だから、何も『本気』にできなかった。『本気』にして、自分が傷つくのが怖かったから。
 でも、あの人は違う。あの人を手に入れられるのなら、自分がどれだけ傷つこうとかまわない。そう思った。
 どうしてここまで惹かれるのか、正直自分でもよくわからない。それでも、目を離せない。忘れることなんてできない。あの人に触れたい、その更に奥を知りたい。
 ふと、視界の片隅に何かが揺れる。
 改めて視線をやれば、朱砂が一枚のチラシを揺らしている。
(チラシ……)
 確か、舟水さんのツレのわたあめさんが置いていったもの……。二人(一人と一匹?)はここにいると告げていったのは記憶にある。
「セッション・バー……アール、ディオナ……?」
 わりとマイナーなバーを廻ることも多いが、ここのお店は初めて聞く名だった。どうやら、今日はなにかしらのイベントをやっているらしい。
 朱砂が首を傾げて、もう一度問いかけてくる。
『いかないの?』
 時計を見れば、もう午後のプログラムは始まっている。急げば、十分間に合う。
「…………」
 開きっぱだった本を閉じ、ショルダーバックに詰め込む。煙草も、痕跡が残らないよう吸殻も全部片付けた。
「朱砂!」
 少しだけ声が上ずったが、しょうがないと思っておく。
 呼応するように、朱砂はにんまりと微笑んだ。









 そっと扉を開けば、既に中は熱狂の渦だった。普段、静かなバーしか寄らないというのもあるから、少々耳につく音が痛い。
 人の間をすり抜け、ひとまずカウンター席の末端に居いる。微かに、術師の気配を感じた。一人や二人ではないが、白銀の集会で感じた気配に酷似しているものが多かったから、気に留めることをあっさりと辞める。
 さすがにまだ明るい時間から酒はどうかと思ったが、せっかくのバーだし、俺は比較的軽めのカクテルを頼む。それに対応してくれたサングラスの男もやはり、術師のようだ。
 さて。俺は店内をぐるりと見渡す。わたあめさんはここにいると行っていた。何処の席にいるのかと探っていれば、意中の相手は思わぬ場所にいた。

 ステージ上。今まさに奏でている集団の中に、いた。

(舟水さん……)
 楽器はそんなに詳しくはない。恐らくはギターだろう。それを携え、他の人が奏でる旋律に合わせて舟水さんが弾いていた。
 予想外な姿に、俺は目を瞬かせる。『いる』とは聞いた、だけど『演奏』しているとは聞いていない。
 俺はじっと、舟水さんの姿を見る。どこか、普段に比べて生き生きしているように見えるのは、気のせいではないと思いたい。
「…………」
 俺は頬付けをついて、演奏に耳を傾ける。自然と頬が緩むのは、惚れた弱みだから仕方がない。
 ふいに、空いていた掌にふわふわした感触があたる。そっと視線を向ければ、いつの間にやら、わたあめさんが膝に乗っかっていた。俺は無言でその頭を指先で撫でてやる。
 そうして、お互いに演奏へと意識を向ける。



 舟水さん。
 まだ、あなたに話せない沢山の秘密がある。オルブライト家のこと、『狂気』のこと――死に別れた恋人のこと。
 悲劇で終わった始まり。まだ『さよなら』を告げられないために、赤い花に囚われたままの心。
 少しずつ、少しずつあなたに話せるようになったなら、あなたのことも教えてくれますか?
 あなたのことを知りたい。その第一歩を。

お返しSS
(2013/02/26)