『狂気』が歓喜する



(…………むぅ)
 突然沸き起こった胸の不快感に、朱砂は口をとがらせる。
 わかっている。これは自分の感情ではない。自分の中にある、『狂気』の感情だ。
 お互いが異質ゆえに混ざり合うことはないけれど、それゆえに動向が手に取るようにわかる。
 渇望しているのだ。
 分かたれた半身を。宿るべき体を。喰らいたい心――『斗樹』という存在そのものを。
 この『狂気』は、かつて斗樹のナカにあったものだ。深い眠りについていた『狂気』はある日、突如として目覚めた。斗樹の母が死んだその日に、斗樹のその哀しみを引き金にして。
 その勢いのままに、『狂気』は斗樹の心を粉々に打ち砕いた。
――ほんと憎らしい。あのヒトも、ヤッカイなものを残したものだ。
 朱砂は、時の彼方に去った彼のヒトを思い出す。もちろん、あのヒトを恨むのはお門違いだともわかっている。
 オルブライト家創設者。自分をこの世界に召喚し、『カルミヌス・ノクス』と名付けたヒト。あのヒトだって、まさか『コレ』が受け継がれるとは思っていなかっただろう。
 彼のヒトの本質、それは『狂気』。その『狂気』はそのまま、血を継ぐ者たちへ脈々と受け継がれた。
 まだあのヒトはいい。自ら狂人のように振る舞うことで、自我を保った。でも。斗樹はそうはいかない。受け入れることも、看過することもできず、その濁流に飲み込まれ自我を失った。
 自分が気づいた時には既に遅く。斗樹の心は『狂気』に貪られていた。
 その『狂気』がなければ、顕現できない自分が一番歯がゆいけれど。
 朱砂が召喚に応じて顕現し、契約を交わして真っ先に行ったのは、斗樹から『狂気』を引き剥がすこと。できるものなら『狂気』全て、根こそぎ奪い去りたいくらいだった。
 でも、『狂気』を失うことは斗樹の『心の死』を意味する。ゆえに朱砂は、最も昏い深淵、斗樹の心を貪る真髄だけを引き剥がし、自分のナカへと収めた。
 分かたれたことで、残された『狂気』が再び眠りにつき、斗樹はようやく自我を取り戻したけれど。
 『狂気』が残した爪あとは酷いものだった。
 僅かに残っていた心を繋ぎ止めただけでは、完全に元通りとはいかない。斗樹の心は貧弱で傷つきやすく、とても危ういものだった。
 だからこそ、誰にも傷つかせはしない。そう決意して、朱砂は斗樹の心に寄り添った。
 大切に、大切に。真綿で包むように。朱砂はずっと斗樹を守ってきた。
 そうして迎えた、『狂気』の二度目の目覚め。
 斗樹はそれを自ら受け入れた。『オルブライト』の血を、『狂気』を、純血のケダモノを。
 それに一抹の寂しさを感じないといえば、嘘になる。
 血を繋ぐオルブライトのニンゲンのなかで、最もあのヒトに近い純粋なまでに高潔な『狂気』。できれば、『狂気』など目覚めないまま一生を過ごせればいいのにと思ったこともある。
 それは、「自分」という存在意義を失うことと同じではあるけれど。
「……朱砂?」
 名前を呼ばれ、朱砂は顔を上げる。机に向かっていた斗樹が、朱砂の方を振り返り首を傾げていた。どうやら、気が漫ろになっていたのが気にかかったのだろう
 朱砂は「なんでもない」と首を横にふる。斗樹は訝しんでいたが、再び机へと向かった。そういえば、大学のレポートの締め切りが近いとぼやいていたっけ。
(………………)
 最近の斗樹はイイ顔をするようになった。相変わらず、外面は愛想笑いしか浮かべないけれど。
 それもこれも、彼――舟水千秋に出会ってからか。
 斗樹は少しづつ、変わり始めていた。それこそ、真剣に、本気で悩んでいた。
 もう誰も好きにならない、誰も愛さない。そう決意していたのを朱砂は知っている。
――どうして、好きになるって気持ちは止められないんだろう……
 そう吐露した斗樹の顔は、確かに恋する顔だった。
 最初の恋は悲劇に終わった。それが、斗樹を臆病にさせた。
 斗樹は恐れている。自分の『狂気』が誰かを傷付けることを。傷つけてしまうことを。
 一度は諦めようとしていた。それでも、諦めきれないと泣きながら縋ってきたのも記憶に新しい。あんな風に感情を露わにした姿を見るのも数えるほどしかない。
 だから後押しをした。ガンバレ、と。もう、後戻りはできない。恋を自覚し、諦めきれないと叫んだ以上は、前に進むしかないのだ。
(…………彼も斗樹と同じ)
 彼も『何か』を抱えていた。それが何なのか、わからないけれど。どうしようもない、どうすることもできない『何か』。
 『自分たち』という種属は、そういったものにとても敏感だ。だからこそ、焦がれるほどに惹かれるのだ。
「朱砂、やっぱり今日はおかしい。なにかあったのか?」
 いつの間にか、朱砂が座っているソファの側に斗樹が立っていた。
 「レポートは?」と朱砂が首を傾げて言外に問えば、斗樹は「気が散って進まない」と答える。
(…………)
 朱砂は斗樹の顔を見つめ、おもむろに腕を伸ばす。
「? 朱砂――っ!」
 朱砂が勢いよく斗樹の腕を引けば、あっけなく斗樹の体はソファーに沈む。受け身を取れなかった斗樹は、眉を寄せて衝撃に耐えていた。
「ぃ…てて……」
 相変わらず、朱砂の動きはデタラメだ。普段はオーバーアクションなのに、その動きに一切空気の揺れを感じさせない。そのうえ、たまに予測外な動きをしてくれるのだ。
(むう。受け身、取れない……取らない)
 斗樹は体術を大の苦手にしている。だから受け身すら満足に取れない。朱砂は内心、さてこの苦手分野をどう克服させようものかと、考える。
「朱砂ぁあ!!」
 下では斗樹が唸っている。それもそうだろう、技をかけられて身動きが取れないという状況なのだから。当然、腕力では朱砂のほうが勝る。肝心の朱砂は、鼻歌でも歌いそうなほど陽気な雰囲気を出していた。
「……なんだよもう、っん」
 朱砂は、そっと斗樹に口を紬ぐように指先を添える。
「…………」
 僅かな沈黙。それが言葉を介さない、二人の会話。

 ねぇ、斗樹? シアワセ?

 そっと離れた指先は、斗樹の乱れた前髪を払う。
 斗樹は頬を緩ませ、心の底からの笑みを浮かべる。それが少し幼げに見えたのは秘密だ。



 だから自分はココロのなかで願う。祈る。
 いつか、この『狂気』を返す日が来ても、斗樹が斗樹であるように。
 いつか、あの花にサヨナラを告げる日が来ても、独りじゃないように。

 そして出来れば、斗樹の隣に『彼』がいてくれればいい。
 だからその日まで自分は。

 願う。祈る。

これが「自分」の存在意義
(2013/02/11)