ひたすらに走る。走る。走る。
斗樹は走っていた。走ることが好きだから、ではない。必要に迫られて走っていた。人の目がつかない、人気のない場所を求めて。
だから、どう走ってきたかは覚えていない。息が切れて立ち止まったのは、以前訪れたことのある廃れた神社へ続く参道の入口だった。
参拝者が途絶えてから久しく、鬱蒼と茂る竹林はあの日と変わらぬ姿をしていた。
ここなら大丈夫だろう。
斗樹は、乱れた呼吸を整えることもせず、震える指先でショルダーバッグのなかを漁る。一番奥、見つかりにくいその場所に目的のものは仕舞われていた。
早く、早く。気持ちだけが急いて、思うように掴めない。
喉が渇き、頭痛が酷い。幸いだったのは、大衆の前で発作を起こさなかったことだろう。
斗樹は、ある持病を抱えていた。
PTSD――心的外傷後ストレス障害。今まさに、斗樹はフラッシュバックを起こしていた。
見られたくなかった。自分の弱さ。未だ過去に囚われている自分。だからこそ完璧を装ってきた。知られたくない自分の姿を隠すために。
指先に覚えのある感触があたる。その手に握られていたのは、黒いシガレットケース。やはり指が震えて、金具を掴めない。
長い格闘の末、ようやくケースの口を開けた時だった。
ヒュッ、と息が詰まる。
(まずい)
そう思った時には遅かった。普段よりも一段と酷いフラッシュバックに襲われる。シガレットケースは手からこぼれ落ち、膝の力が抜けた。
視界が、ぐるりと一回転する。
(ああ……これは久しぶりに……酷いやつだ……)
自分のことなのに、まるで他人事のように思えた。
次第に闇へ落ちていく視界のなかで、朱砂が叫んでいるのが見える。それでも彼女の声が耳に届くことはなかった。
朱砂は途方に暮れていた。
眼前にはすっかり正体を失い、横たわる斗樹の体。顔色はすこぶる悪い。
朱砂にかかれば、斗樹を担いで移動することは朝飯前だ。しかし人の目につくことは必死。それは極力避けねばならない。
それでなくても斗樹は、この持病を祖父母に知られることを恐れていた。幼くして母を失い、また父とも離れて暮らす斗樹を祖父母が代わって育て、可愛がってくれた。だからこそ心配をかけたくない、そういって秘密にすることを誓ったのだ。
朱砂もその事情をわかっているからこそ、家へ連れ帰ることは最初から選択肢に入れていない。だからといって病院へ駆け込むこともできない。きっと連絡が届き、バレてしまうから。
よって、一番の最善策は斗樹が自力で帰路につくことなのだ。
朱砂は試しにと、頬をペシペシ叩いてみる。やはり反応はない。
さてどうしよう。そう考えてから、朱砂はぐるんと顔を後ろへ向ける。
視線の先に人影が立っていた。スーツを着ているからどこかの会社員だとは思うが、近くに来るまで朱砂に気配を悟らせないとは、余程の手練なのだろう。現に、朱砂の異様な容姿を見ても青年は驚きを見せなかった。そのうえ、その傍らにはもこもこした物体が寄り添っている。
図鑑というもので見たことがある。たしかあれは……
(……ひつじ?)
そう、羊。まごうことなき羊だ。でも、
「ちゃーき、人がたおれてる。それに……」
幼い子どもの声。それは、羊の方から聞こえてきた。朱砂と同じ、術師と契約した『人ならざる存在』――使鬼だ。
羊はトテトテと朱砂たちの方へ駆け寄ってくる。
「だいじょーぶ?」
その言葉通りに、羊は心配そうな顔で斗樹の様子を伺う。
「…………」
朱砂は、少し迷った。発作を起こして倒れた以上、大丈夫とは言いがたい。ましてや、見かけない術師と使鬼が目の前にいるのだ。弱った。
「詳しい事情は知らないが、そのままにしておけないだろ。救急車を……」
呼ぶ、といって、この国では珍しい型の携帯で電話をかけようとした青年は、わずかに息を呑んだ。
いつの間にか眼前に朱砂がいて、青年の腕を掴んでいる。距離はあった。しかし、その距離を感じさせないほどの移動の速さに驚いたのだ。
首を左右に振って、朱砂はダメだと意思表示をする。
「……救急車を呼ばれたくない事情でもあるのか?」
その質問に、朱砂は重々しく頷いた。バレる訳にはいかない。斗樹がそれを望んでいない以上、朱砂は出来る限り隠し通さなければならない。
青年はしばし無言で、それでも「わかった」と一言答えると、携帯を再び元の場所へ戻した。
朱砂は胸を撫で下ろす。これで家族にバレる可能性は下がった。さて、あとの問題は斗樹だ。
「その様子だと、人目にも付きたくないようだな。ここはまだ人の往来がある、運ぼう」
青年は横たわる斗樹を、朱砂に変わって抱き起こす。途中、側に落ちていたシガレットケースに目が入った。
具合が悪いのに煙草? と思ったのだろう。朱砂はケースを拾い上げ、クチを閉じる。煙草を吸っている事実も、斗樹は秘密にしていたから。
「……・・……ファ……」
姿勢が変わった衝撃からきたものなのか。斗樹の口から掠れ声が溢れる。しかし、それは言葉にすらなってはおらず、青年には聞き取れなかった。
ただ、斗樹の頬を一滴の涙が伝ったのだけは見逃さなかった。
斗樹が眠りの淵で呼んだのは、かつての恋人の名だった――
その腕に朽ち果てた花を抱いたまま、斗樹はただただ横たわる。
それはかつての記憶。かつての想い。
本気で恋し、愛したココロ。
自分が消してしまった、恋人の抜け殻。
斗樹はその花を捨てることができなかった。今もなお、囚え、囚われる。
それでもいいと思った。もう誰も好きにならない。誰も愛さない。
そう思っていたから。
ふと。ポッカリとあいた空虚に、小さな違和感を感じる。むず痒い、それでいて暖かい『なにか』。
――蕾だ。今はまだ固く閉ざされた、それでもしっかりと根づいた花の蕾。
ダメダダメダハヤクタオラナキャ
決めたのだ。もう恋はしないと。そう決めたのに……。
どうして斗樹は その蕾を 手折ることができなかった
頭がぼーとする。
視界の中には鬱蒼と茂る竹林。日が差し込まないせいか薄暗い。それでも頭上に見える空は青いから、まだ明るい時間帯なのだろう。
斗樹は、考える。
ここはどこだろう。どうしてここにいるのだろう。なぜ、おれは……。
ゆっくりと順をおって出来事を思い出していく。
(あぁ……そうだ……フラッシュバックを起こして……)
人目のない場所を求めて走った結果、あの廃神社へ来たのだ。それ以降の記憶が無いところをみれば、恐らく意識を失っていたのだろう。
サラリと。額を優しい指先が撫でた。朱砂だ。
「あ、目がさめたぁ」
第三者の声に弾かれるように、斗樹は声がした方向を向く。そこには一頭の羊が蹲っていた。
「良かったね、おねえさん」
羊は子供のような幼気な声で朱砂に声をかける。一方の朱砂も、同意を示すように頷いた。
正直、斗樹は驚いていた。こんなところに羊がいることもさることながら、何故人語を介せる羊がいるのだろうかと。
やはり、思考がきちんと回っていなかったのだろう。そして思い至った。ただの羊じゃない。これは、朱砂と同じ『存在』だ。
朱砂が警戒を見せていないところから、恐らくは『敵』ではないのだろう。
「ちゃーき! おにいさん、起きたよっ」
羊がムクリと立ち上がり、トテトテと駆けていく。その先にはスーツ姿の青年。手には、ビニール袋を下げている。その言葉に応えるように、青年は駆け寄ってきた羊の頭を撫でた。
「…………」
斗樹は、ただただ唖然としていた。きっと彼が、あの羊と契約した術師なのだろう。どこか眠たげな目に、気怠そうな表情。
「気分は? 病院には連れていけない事情があるようだからな……」
青年はちらりと視線を朱砂にずらす。どうやら朱砂が引き止めてくれたらしい。ありがたい。
「助かります……一応かかりつけの病院はあるんですけど、あまり大事にはしたくないんで……」
ガサゴソとビニール袋から取り出し、青年が斗樹へ差し出したのはスポーツドリンクだった。
「水分補給。顔色は良くなったようだが」
斗樹は礼を述べて、スポーツドリンクを受け取る。そういえば、喉がカラカラだった。
「ちゃーき、そろそろ……」
時間、と羊が小さく囁く。どうやら仕事中だったのだろう。
「お仕事の途中だったんでしょう? 俺は少し休めば大丈夫ですから、行ってください」
斗樹は気丈に振る舞う。弱い自分を隠すために。それは、ただの言い訳だったかもしれない。
青年は暫く斗樹を凝視していたが、何の後腐れもなく踵を返す。
その背中に一抹の寂しさを斗樹は感じた。寂しい? これは、この感情は――
「……あ、あのっ……!」
斗樹は思わず呼び止めていた。肩越しに青年と羊が振り返る。射抜く黒目に、斗樹は思わず生唾を飲み込んだ。よくわからない――いや覚えのある――感情が突き動かす。
「……名前、聞いても……いいですか?」
思わぬ言葉だったのだろう、青年は目を瞬かせる。そのままゴソゴソとポケットを漁る。手渡してきたのは一枚の名刺。
「舟水、千秋。こっちは
自分も紹介されるとは思わなかったのだろう、『わたあめ』と呼ばれた羊も慌ててペコリとお辞儀をする。そうして、今度こそ一人と一匹は立ち去った。
「ふなず……ちあき……」
青年らが去っていった方角を向いたまま、斗樹は小さく呟く。その名前を、その声を心に刻むように、噛み締めるように呟いた。
手渡された名刺をじっと見つめる。
「幻楼社……舟水、千秋……」
どうしてか、もう一度会いたいと思った。
「私、こういうものでして。こちらで――」
朱砂がしきりに外を気にしていたから出てみれば、そこにはどう見ても怪しい行動をしている真っ最中の胡散臭い人がいた。
肩を落として、すごすご立ち去る青年の背中を斗樹は見送る。どうも女子会を何某の集会と勘違いしていたらしい。一度は沈み、それでも立ち直りかけたように見えたが、結局は沈んだ。
正直、彼の葛藤の意味はわからない。
でもあの顔は覚えがある。残暑厳しいあの日、廃れた神社で何度か見かけた。名刺を見返せば、『幻楼社』の文字。やはり幻楼社の社員だったのか。
(でも……どこから情報が回ったんだろ……?)
斗樹はわずかに首を傾げる。主催者であるほのかさん(「雪女さん」と呼ぶと怒るので)からは口止めを頼まれた。だから自分が情報源ということは、まずないと思う。
(まぁあ、蛇の道は蛇というし……)
そう思うことにした。
「…………」
斗樹はもう一度名刺を見返す。
『幻楼社』。その字を見るたびに、脳裏をよぎるのは一人の青年。自分よりは年上に見えた、もちろん背も少し高い。眠たげな目をしていたことを覚えている。
「舟水、千秋……」
今ならわかる。
俺は あの人が好きなのだと
まだ一度しか出会っていないというのに。それほど言葉を交わしたわけでもないのに。気づけば、あの人のことを考える。
本気の恋はしない。誰も好きにならない。誰も愛さない。そう決意したはずなのに。過去の気持ちすら、まだ整理がついていないのに。どうしても、あの人の面影を探してしまう。
自覚したらしたで、余計ひどくなっていった。
もう一度、恋をしてもいいのだろうか。
もう一度、誰かを好きになってもいいのだろうか。
もう一度――誰かを愛してもいいのだろうか。
「こんな俺でも……もう一度望んでもいいんだろうか……」
自問する。答えは帰らない。まだ、怖いから。
男が男に告白するのだ。普通の人なら拒絶されて当たり前。しかし、斗樹が最も恐れているのはそれではない。
自分の中に巣食う『狂気』。それが、大切なモノを傷つけてしまわないか。それが怖いのだ。
その『狂気』でもって、かつての恋人を消してしまったから。その事実が、斗樹に二の足を踏ませた。
ポンっ、ポンっ
頭を優しい手が励ます。
朱砂だ。その場に蹲ってしまった斗樹を励ます。やっぱり、中途半端に上半身だけを影から出した状態ではあったけれど。
音にはならない、それでも朱砂の唇は言葉を紡ぐ。
――ガ ン バ レ
幼い頃の斗樹の痛みを半分引き受け、時には「姉」、時には「母」のように見守ってきてくれた、かけがえのない相棒。いつだって彼女は斗樹の味方で在り続けた。きっとこれからも。
そう彼女は『約束』したから。
「……うん、ここで悩んでたって前には進めない」
まだ『過去』に「さようなら」は言えないけれど。斗樹は生きている。未来へ向かって、一歩一歩前へ進んでる。
まだ「答え」を聞く勇気はないけれど。この想いだけでも伝えたい。
一歩を踏みしめて、会いに行こう。
「じいちゃーん、明日なんだけど……ちょっと寄るとこあるから帰り――」
もう一度 恋を 始めよう